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竹田城址



兵庫県和田山に、竹田城址の史跡があります。
北近畿豊岡自動車道と播但連絡道路が接する位置に、
朝来(あさご)市和田山竹田の集落があり、
竹田城 別名 “虎臥(とらぶす)城” は、
この集落を円山川とで挟むようにして見下ろしています



遠く竹田城の広大な石垣の威容を望む

竹田城址から竹田の集落を見下ろす


風4号が南近畿を掠めて東に去った翌日の7月16日、
友人K氏の案内で 山城・竹田城址を訪ねました。





雨はもう降らないと判断して出かけたのですが、
山上は霧と雨の中でした。
時おり散り止む霧と雨を縫って、
人気のない城跡を渡り歩きました。

竹田城は、備後・但馬の大守護であり 応仁の乱では
西陣の主将であった 山名宗全が 13年の歳月を費やして
築いた山城であったと伝えられていますが、
築城当時は石垣はなく、のちに羽柴秀吉軍の
手に落ちて以後 城郭が整備されたと推定されています。




野面積みの石垣に覗われる「穴太流技法」


石垣は “野面(のづら)積み” で、
近江穴太(おうみあのう)衆の手による
穴太流の石積み技法が生かされています。

石材は山麓付近から集められたものか、
それにしても こんな大きな石を よくぞ山上へ運んだものだと、
感心してしまいます。




山名宗全の家臣 太田垣光景が初代城主となってから7代続いた虎臥城は、
秀吉軍の二度の兵糧攻めにあって落城します。
城跡には井戸らしき跡は見当たらず、おそらく雨水で渇きを凌いだのでしょう。
難攻不落に見えるこの城も、秀吉の巧みな城攻めに敗れたのです。
秀吉はのちに、この城を四国征伐で戦功のあった 赤松広秀に与えます。

もともと赤松氏は村上源氏を名乗り、建武の中興時の功によって播磨守護職となり、
足利室町幕府においては、四職(ししき)を勤める守護大名の家柄でした。
それが、1441年(嘉吉1年) 赤松満祐(みつすけ)が 将軍足利義教を暗殺して起きた
嘉吉の乱で、山名宗全に敗れて以後、赤松氏は衰勢をたどります。
いわゆる 下克上の世を盛衰した家系といえます。

そして 赤松広秀は、赤松氏衰勢の仇敵である 山名宗全が築いた城の主として、
竹田城下領民を治めることになるのです。

広秀は 九州征伐、朝鮮の役にも出役し、また文化人としても儒学者 藤原惺窩との親交も厚く、
領民には産業を奨めて 深く敬慕されたということです。

関が原の戦では西軍に属しましたが、関が原敗北後、徳川方として鳥取城を攻め 戦功をあげます。
しかし、城下に火を放ったことで 徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺において自刃して果てます。

赤松広秀 享年39歳、慶長5年(1600年)10月28日のことでした




足下から湧き上がる雲のような霧の中で 竹田城址天守閣跡にしばし佇むと、
この城を巡って織り成してきた歴史の重みが、ふっと蘇ってきます。
まさしく、 「古城よ ひとり何思う」 です。



北千畳から天主台を望む

天主台から北千畳、遠く円山川を望む


学生時代に日本中の古城を訪ね歩いたと自負していましたが、
今回 竹田城址を初めて尋ねました。
こんなに近くに こんなに壮観な城址があったことに、
驚きと喜びを強く感じます。
竹田城址を案内してくれたK氏に感謝です。



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