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東北



プライベートの時間を使って この1年ほどフリーマガジンを作るお手伝いをしています。
「日本をつなぐフリーマガジン」と題し 東日本大震災後から発行されていて 東北の現状を日本全国に伝えようという想いから始まっている無料配布冊子です。

私は主に 取材音声を文字に起こしたり 校正チェックなどを担当していましたが 今回やっと日程が合い 東北取材に同行してきました。
人生初の東北です。

金曜日 京都駅八条口から夜行バスで11時間半かけて翌朝9時半に仙台駅に到着。
今回は4名(内2名は大学生)での取材でしたが 全員バラバラでの現地集合だったので 仙台駅集合後レンタカーで出発したのが 午前10時半頃。

先ずは岩手県の西加賀町へ。
仙台には少しも見られなかった雪ですが さすがに山間部まで入ると 2mぐらい積っていました。





ここに 被災地の子供(小学生)を16人連れて 一人暮らしのお年寄りのお家の雪かきをしに来ていたNPO法人の方の取材。





窓から明かりが入るようにと 1階の屋根の高さから雪下ろし。
引率の方々は半そでの人もいました(汗が出る重労働)。

被災地の子供たちが受けているストレスは 様々な形で表に出ているそうです。
いままで支援を受ける側だったこの子たちを「支援する」側で行動させ ストレスの発散や解消に繋がればと企画されたそうです。
お話を聞いたのは 20代半ばの女性。大学生の頃から関わっているそうですが とてもしっかりした方でした。


取材を終え 陸前高田を目指し沿岸部へ向いましたが 着いた頃には日も暮れて “奇跡の一本松”の近くまでは行けませんでした。
ライトに照らされていたので 「あそこや~」と見えるのですが 一帯が工事地域で進入経路が見つけられず。

工事地帯。
だからこそ 暗かったんです。
壊滅的と言われた陸前高田。
日が暮れてしまうと 灯りが全くありません。
道路の両脇は 真っ暗な広大な土地。
人々の生活があった頃は 灯りが沢山あった土地。
ポツンと残された集合住宅の一棟は 4階まで水没した跡が残っていました。

ここから宿泊地の気仙沼へ。
宿泊先はドミトリー。
食事はもちろん付いてないので 近くの “気仙沼復興屋台村”へ。





どの店内も賑わっているのですが 取り壊されるときが来るとわかっています。
最初に期限と言うものを作るのはわかるのですが 臨機応変に対応すれば良い事が行政の動きには沢山あり過ぎます。
この屋台村の前の道路は湾なので 夜はここにも灯りがありません。
少し前から道路沿いにイルミネーションを灯されているとの事で 私たちが行った時はクリスマスのように光っていましたが それもこの屋台村があるからこそ。
「暗くて側溝に足をすべらす人がいたりするので最近始めたんです」と お店の方が言ってました。

隣の席に座られた地元の方々と盛り上がり この後2件連れて行かれました(笑)


翌朝 「体重い~」と全員口にしながら 8時半にチェックアウト。

お昼に関西から来られている他の団体の方と食事をする事になっていたので朝食後 南三陸方面へ。

津波被害で休止中の気仙沼線。





鉄橋が一部無くなっていたり 線路が途中で切れていたり。





この高さにあるのに と思わずにはいられませんでした。

東浜街道を走っていると 「ここから水没区域」「ここまで水没区域」と書かれた表示が交互に出てきます。
山道を走っているので感覚では高い場所で この表示がなければ信じられない位置です。
こんなところにまで。
ここまで来ないと思ってられた気持ちがわかるぐらいの場所です。


沢山の命が亡くなった 防災対策庁舎。
取り壊すか残すか 未だ決まりません。





庁舎のまわりは嵩上げ工事も始まっており 本当にこの建物だけがポツンと残っているので 寂しさを誘うのは確かでした。
必要な人もいるだろうし 見ると辛い人もいる。
ここに居た数分の間にも 手を合わせに立ち寄る地元の人の姿を見ると 残す残さないという問題はとても難しい事だなと感じました。


この地でいち早く食事の出来る場所をと お店を開かれた “さんさカフェ”さん。





テレビにもよく取り上げられ 地元の人も昼食に来られる活気のあるお店ですが 1月末で閉店です。

さんさカフェさんのお店から 嵩上げ工事の始まった広大な土地が見渡せました。





ここからフリーマガジンの印刷をお願いしている鈴木印刷所さんを訪ねる為に 石巻市へ。
鈴木印刷所さんは 東日本大震災で津波被害に遭われ 1階は90㎝ぐらいの高さまで水没し 印刷機は全てダメになられました。
震災で亡くなられた従業員さんもおられます。
“印刷業務で出来る復興”を日々追求なさっています。
お伺いした時も新たな試みを「使ってみて」と提供くださいました。
次号のフリーマガジンに取り入れられるかな。

鈴木印刷所さんを後にして 学生くんが「行きたい所」と挙げた 日本三景松島へ。





おだやかな水面を見ていると 本当にあの津波が この同じ海からやってきたのが不思議に思えて来ます。
自然の力は とてつもない。

この日 私ともう1名は飛行機で帰らなくてはならなかったので 翌朝の飛行機組学生2名と 「最後の夕食は牛タン食べよう!」と言っていたのですが 一つ一つの場所に時間とってしまった事と 松島から仙台市内までの渋滞とで 時間切れ。

「あとは自力で頑張って!」と 学生2名を仙台駅で放置し(笑) レンタカーを返す空港まで猛ダッシュ。
頭のなかは「牛タン」の二文字でいっぱいで 空港内のお土産屋さんで 牛タン買いまくりました。


この取材の内容は 3月11日創刊 第7号フリーマガジン“SHIEN”にて取り上げます。
全国200箇所にて設置していただいてますので 見かけられたら手にとって頂ければ嬉しく思います。
ご請求いただければ送らせて頂きます!


復興屋台村で隣に座られた3人組。
みんな同じ職場と言われてましたが よく聞けばその中の2人は義理の親子。お父さんと「娘を取りよった」義理の息子さん。
息子さんが私たちの話している関西弁を聞いて「大阪の人?」と声を掛けられたのが始まりで 何をしに来たのかなど 他のお客さんも巻きこんでの宴会状態になったのです。

息子さんのお家は1階が水没。
「でも 仕方ない。何を言っても仕方ない事。」
そう繰り返されてました。

「お父さんは同居してられるんですか?」と聞くと
「おばぁと二人になってしもた」と返事をして 言葉に詰まられ ポロポロ涙を流されました。

奥さんは津波に飲まれて亡くなられたそうです。

「仕方ない。どうしようも無い事。」
息子さんが お父さんの方をポンポンしながら 繰り返します。

ご遺体は半年後に見つかったそうです。

3月11日で 3年。

こちらでは「風化した」「風化する」と言葉にしますが 実際に被害に遭われた人たちに「風化」なんて永遠に無い。
そう思います。

ポロポロ泣くお父さんを見て それ以上に声を出して泣いたのが うちの学生くん。
彼らは20歳と21歳。
阪神淡路大震災さえ 覚えていない頃の出来ごとの子たちです。

東日本大震災に関してはテレビや新聞などで知っていますが 実際に被害に遭われた人の生の声を聞くのは初めてで 衝撃的だったようです。

必ずあると言われる次の震災時 学生くんたちの世代が先頭切って動けるようになっている 一つのきっかけになればいいなと思います。

「あんたら うちに泊まれ」と 息子さんに誘われ「もう宿にお金も払ったんで」と言うと
「じゃぁ 宿にはご飯ついてないから 朝ご飯食べにおいで」と言って 「明日の朝ご飯4人食べに来るから」と家に電話をし ベロンベロンの酔っ払い状態で約束をされての 翌朝。

「ほんまに行っていいんかなぁ」
「寝たら忘れてるん違うやろか」
行って良いのか悪いのか…判断が難しい。
悩みに悩んで 取り敢えず電話してみよう と教えてもらっていた番号にかけると 用意しているとの返事。

ひゃぁ~ 覚えてはったわ~!!!
でも 酔っ払いの息子さんしか知らないのに ほんまにいいんかな~???
と不安いっぱいに向い…御馳走になりました(笑)
ザ・朝ご飯!





息子さん夫婦にお子さん二人(4歳、1歳) 、実のお父さんお母さん 総勢6名でお出迎えくださいました。
今考えても…恐縮してしまう…

お家の1階が浸水したのは昨夜聞いてましたが 家の中と表に こんな物が貼られていました。





“3.11.2011 WATER LEVEL”

海は近くに無いけれども 災害に供える事は 亡くなられた人たちからの教訓にしなければ。

夏頃 「おばぁと待ってる」と言ってられた お父さんのお家に 次回は晩御飯食べに行きます!
宿泊込みで(笑)





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