YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
心なしと見ゆるもの

文字サイズを変える
文字サイズ大文字サイズ中



心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。

これは、吉田兼好の徒然草に出てくる 有名な言葉です。
長い間 わたしは、これについて「たいした奴でなくても たまにはまっとうなことをいうことがある」といったニュアンスの捕らえ方をしていました。

「回りには たいした者はいない、だけど ときどき為になることを言う者もいるから 毛嫌いせずに心して 耳を傾けなさい。」
傲慢な解釈だったと 恥ずかしくなります。思い上がりもはなはだしい 鼻持ちならない青年でした。


「心なしと見ゆるものにこそ」
そう考え出したのは、不惑を過ぎた頃でした。

いろんな人々と会い、見た目と異なる相手の魅力を感じ、第一印象では計り知れない怖さを知りました。
でも、まだ自分の正体を 見破れていませんでした。
心なしと見ゆるものにこそ と思う心根こそ、いまだ自覚のない証しでした。


自信喪失、自己卑下、人間不信、社会性欠落・・・ ありとあらゆる自己喪失の醜態を経て、還暦を過ぎ 見た目にも明らかに衰えを露呈しだした頃、やっと気づきだしました。

心なしと見ゆるもの、それは自分本人だ と。


このことについて色々考えさせてくれたのは、児童文学者・灰谷健次郎の 『わたしの出会った子どもたち』(新潮文庫) という作品です。

この文庫本は、長い間 本棚の奥で眠っていた 積読の書でした。
詩人としての灰谷健次郎に 好感をもっていたからでしょう、本棚を整理していて 少々色あせた表紙のこの文庫本に 吸い寄せられました。

以前 この欄で、「やさしさについて」 と題して 自分の思いを投稿したことがあります。
いまでも その思いに変わりはありませんが、『わたしの出会った子どもたち』 を読んで、自分の考えているやさしさのひ弱さを 思い知らされました。
同時に、優しさのない人生なんて 生きる価値がないとの思いに、力強い勇気を貰うことができました。


絶望をくぐらないところに、ほんとうの優しさはない。


灰谷のいう この “ほんとうの優しさ” は、彼の 『罪意識』 から生まれています。
さまざまな底辺の人たちに出会い、その優しさに支えられてきたのに、その意味が理解できなかったことの罪。


ぼくは、ぼくを育ててくれた優しき人々の孤独と絶望を食べて、生きてきた・・・


人間の犯す罪の中で もっとも大きな罪は、人が人の優しさや楽天性を土足で踏みにじるということだ、と灰谷は悔恨します。
彼の 身を掻き毟らんばかりの 『罪意識』 が、わたしには よく理解できるのです。
わたしも、どれだけ多くの “心なしと見ゆるもの” の優しさや楽天性を 足蹴にしてきたことか。

わたしが 『わたしの出会った子どもたち』 で教わったのは、深刻や絶望をくぐってきた人だけにそなわる ほんとうの優しさには、人間の肌のぬくもりを失うまいとする強いまなざしがある、ということです。

絶望を拒否し、苦渋の中に微笑みを見据える強さ。
優しさが 真の強さだということの確信。
わたしの正体である “心なしと見ゆるもの”、 それこそ ほんとうの優しさを秘めているのだよ、と やさしく肩をたたかれたような気がします。


人間は自分の幸福のために生きるのではない。
人間が幸福を求めるのは、他人の不幸にがまんがならないからである。



この 灰谷健次郎の身を掻き毟る悔恨が生んだ信念から、萎えかけていた “心なしと見ゆるもの”の 心を外に向かって解き放つ力を貰うことができたのです。


心なしと見ゆる者こそ、まことの優しさを宿すものなり。