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ユージン・スミスの写真

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「没後30年 W・ユージン・スミスの写真」展が、京都国立近代美術館で開かれている(9月7日まで)。


『ライフ』 というグラフ雑誌を、覚えてられるだろうか。
1970年ころまで 開業医の待合室や ちょっと気の利いた床屋の待合席本棚に見かけた大判の写真週刊誌である。

その写真を見たのは、社会人になって2年目の夏 新日鉄君津製鉄所から小倉にある住商支店へ 移動するときだった。

新米社員だったわたしが どうして飛行機での移動が許されたのか 今では全く覚えがないが、羽田から福岡行きの国内線の機内で手にした 『ライフ』 に載っていた写真は、記憶の奥底に留まっていた。

その写真は、横たわる水俣病患者の 醜く折れ曲がる手であった。
クローズアップされた異様な手の悲しさが、記憶に焼きついたのだと思う。


グラフ雑誌 『ライフ』 は、文章よりも写真で報道するというスタイルの フォトジャーナルの旗手であり、第二次世界大戦のアメリカの報道機関としての重要な役割を担い 多くの優れたフォトエッセイストを育てたが、テレビの台頭にスポンサーを奪われ、この年 1972年暮れをもって休刊する。

あのときは その写真を誰が撮ったのかなど 気にもとめなかった。
が、先日 地下鉄構内の京都案内棚で目にとまったチラシに載っていた写真の一枚が、あの国内線の 『ライフ』 で 見たものと同じであり、チラシは 「没後30年 W・ユージン・スミスの写真」 とあった。

ユージン・スミスは、1978年 59歳で世を去った。
わたしの親の世代である。

第二次世界大戦の米従軍報道カメラマンとして 直ぐに名が浮かぶのは ロバート・キャパだが、キャパの5歳年下のユージン・スミスも、『ライフ』 の戦争通信員として戦場に赴き 太平洋戦争の戦況をアメリカ本土に伝えていた。

サイパン、硫黄島、沖縄の地上戦の絶望的な現実に直面したユージン・スミスは、中立的な写真家の視線を捨て 自分自身を被写体の側に置く立場を選ぶのだが、それは 彼の優しさから そうせざるを得なかったに違いない。

サイパンから 彼の実家に送った手紙に、こうある。

これら写真の中の人々が、私の家族でありえたから・・・。そして、わたしの娘が、妻が、母が、息子が・・・苦しめられてゆがむ異なる人種の人々の顔に写しだされるのを見た。
生まれの偶然、故郷の偶然・・・戦争へと至る人間の腐敗のいまいましさよ!
血まみれになって死にゆく子供を我が胸に抱くその一刻一刻、その子の生命は漏れ出し、私のシャツを通って、燃え上がる憎悪で私の心を焼き尽くした・・・あの子は私の子供だったのだ・・・。



展示会場に並ぶ150点の写真を 年代順に観て歩きながら、わたしは ユージン・スミスという 親のような写真家に、 徐々に近づいていった。

それらの写真の一枚一枚から、彼の優しさを感じ取っていった。
他人の不幸にがまんならない彼の心の “救済者コンプレックス” が、じわじわと伝わってくる。
そして、最後のセクション 『水俣』 で、あの写真と再会する。


水俣病患者の どうしようもない苦しみを わが身の苦しみとして、ユージン・スミスは、彼の信念である “写真家としての二つの責任” すなわち 一つは被写体に対する責任、もう一つは 写真を見る人々に対しての責任を果たしながら、写真という媒体を通して自己主張しているのだ、と思う。

そこには、彼のほんとうの優しさが溢れている。
だからこそ、見るものに “ひとごとではない” と思わせる力を宿しているのだ。


あの写真の 悲しみに歪む異様な手は、そのとき16歳の上村智子ちゃんという 胎内感染で有機水銀に毒された水俣病患者であることを、アイリーン・美緒子・スミスの回想録で知る。

アイリーンは、ユージン・スミスより31歳も年下の妻だった人であり、水俣公害の実態を彼とともに記録し 報道してきた取材パートナーでもある。

彼女の回想録に、こうある。


・・・智子ちゃんのご両親は、長女である智子ちゃんのことを 「宝子」と呼んでいました。
魚の中に水銀という有毒物質が入っていて、それを知らずに食べた人々の体内には水銀がたまっていました。
母親にたまった水銀は、胎盤を経て子どもに入っていきます。
智子ちゃんが母親から毒を抜いてくれたのです。
彼女のおかげで、その後生まれてきた5人の女の子と 一人の男の子は、智子ちゃんのように水俣病に冒されませんでした。
智子ちゃんは 「宝子」です。
・・・原因が有機水銀であることが明らかになっていた当時、水俣病に対する偏見は強く、それは依然として続いています。
そして その偏見は家族にまで向けられました。
結婚の話を困難にし、時には縁談までだめにしました。
智子ちゃんは そうした世の中が強いる環境の中、1976年、成人式を迎えて間もなく、妹や弟が大人になる少し前にこの世を去りました。・・・



この回想録を、わたしは、こみ上げる涙をこらえて 読んだ。
その心の震えは、ユージン・スミスの写真を見ていなかったら、こんなにも強くはなかっただろう。


彼の 『MINAMATA』 写真集が大反響を呼んで1年後、ユージン・スミスは二度目の脳内出血を起こし、死去する。