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歩いても歩いても

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是枝裕和監督の映画 『歩いても歩いても』 を観ました。

15年前に亡くなった長男の盆供養に集まった横山家の、或る夏の一日半を描いています。
成人して家を離れた子供たちと 老いた両親、孫を含めた一家の ありふれたひととき。
特別な悲劇が起こるわけでもなく、ちょっと賑やかに ちょっと悲しく過ぎ行く “普通” の家族の “普通” の出来事。

家族のこと、家の周りのこと、亡くなった身近だった人のこと・・・
それら 淡々と流れていくスクリーンの向こうの出来事が、映画の一観客にすぎない わたしの出来事のように 起こり そして過ぎてゆきました。

この静かな感動は、いったい何なのでしょう。

けだるい毎日の連続が当たり前に思っていた自分は こんなにも一生懸命生きていたのか、という気づき。

ひとりぽっちだと思うことの多い自分の毎日の生活は こんなにも気遣ってくれている 周りの人たちに囲まれていたんだ、という気づき。

そして、自嘲的クスクス笑いが誘われ出る かずかずの会話や場面。


この映画は、色々な小道具的脇役が 主役たちを引き立たせています。
中でも、満開の百日紅、懐かしのヒット曲 「ブルーライトヨコハマ」、そして 紋黄蝶は、それぞれ 引退した開業医の 頑固な父親、料理上手で面倒見のいい母親、そして 15年前に海でおぼれている少年を助けて死んだ長男の、名脇役だと思いました。


昭和40年頃に建てられたらしい 医院と住居が繋がった併用住宅、この家を建てたときに植えた薄桃色の百日紅。

孫たちが 「おばあちゃんのおうち」 というのを 「このうちは俺が建てたんだ」 と 腹を立てる父親(原田芳雄)は、孫たちが この百日紅の花を棒で払い散らすのを見て 雷を落します。
自分の威厳を 払い落されたとでも 言わんばかりに。

使われなくなった過去の職場の診療室で、父親は ひとり 手持ち無沙汰に 専門誌か何かを ぼんやり眺めています。

そこへ 娘(YOU)が入って来て、「みんながいる茶の間へきて 一緒に話したら」 と 父親を誘います。
父親は、あわてて仕事をしているふりをします。
切なくなる光景です。


1970年頃に いしだあゆみが歌ってヒットした 「ブルーライトヨコハマ」。
わたしの母も、この曲が好きでした。

映画の題名 『歩いても歩いても』 は、この曲の歌詞から採ったとのこと。
是枝監督は、やはり 母親をいちばん描きたかったんですね。

映画の中の母親(樹木希林)は、この曲が夫の浮気にまつわるものであるにも関わらず、ナツメロレコード全集を買って この曲をこっそり聴いていたのです。

家事全般も てきぱきとこなし、一見陽気で、良すぎるくらい面倒見がいい。
でも、たぶん 子どもたちは 小さかった頃 ゆっくり話を聴いて欲しかったし 本を何度もやさしく読んで欲しかったに違いない。

そういうことは、きっと 苦手な母親なんだろう、と思います.。

台所で娘が 転がっていたパチンコ玉を拾う場面は、樹木希林の名演技もあって 心に残ります。
陽気そうに見える母親も、たぶん夫が毛嫌いするパチンコで 寂しさを紛らわせていたのです。


午後 陽がだいぶ傾いてきたころ、母親と次男の息子(阿部寛)一家、バツイチの嫁(夏川結衣)とその連れ子の10歳になる男の子 あつし の四人で、海の見える高台へ 亡くなった長男・純平が眠る墓参りに出かけます。

そこへ、一羽の紋黄蝶が ひらひらと飛んできます。
母親が 独り言のように
あれは、去年の紋白蝶が冬を越して生き延びて 黄色くなって現れたのよ」 と言うのを受けて、
息子は
誰がそんなこと言ったの」 と問います。
誰だったか覚えてないけど、そうなのよ」 と答える母親。

その夜、息子と連れ子のあつしが風呂から出ると、居間に迷い込んだ紋黄蝶を 「純平かもしれない」 と、母親が夢中で追いかけています。

息子が蝶を庭に放したあとも、外を見つめて何かつぶやく おばあちゃんを、じっと見つめる あつし。


ラストシーン、あの夏から7年後、父親も母親もこの世から去り、次男一家は海の見える墓地に来ています。
あつしは高校生になり、4歳ぐらいの女の子も一緒です。

その帰り、遠くに海を眺めながら 四人がかなり急なだらだら坂を降りてくると、一羽の紋黄蝶が ひらひらと飛んできます。
父である次男が 独り言のように
あれは、去年の紋白蝶が冬を越して生き延びて 黄色くなって現れたんだ」 と言うのを受けて、
女の子は
誰がそんなこと言ったの」 と問います。
誰だったか覚えてないけど、そうなんだ」 と答える 父である次男。


何度もスクリーンに映し出される 印象的な場面があります。
“階段好き” で知られる是枝監督が選んだ、海の見える 木漏れ陽の美しい 長い長い階段。

トップシーンで 父親が杖をつきながら ゆっくりと降りて海に向かう階段、
次男一家がスイカとシュークリームを提げて 親の家に向かう階段、
翌日の朝 老父と義父とあつしの三人で海を見に降りていく階段、
そして 次男一家をバス停まで送った老夫婦が ゆっくりと登っていく階段。

特に印象深かったのは、なさぬ仲でも孫がいるから 父親と息子が連れ立って海を見に あの階段を三人で ゆっくり下りていく場面。

脚が悪い老父は ふたりから遅れがち、息子は父親を気遣い 階段の途中で携帯電話をかける振りをして、老父を先に行かせます。


父親と息子の関係は、ほんとうに複雑です。

父親は、息子が小さかった頃は 嘗めんばかりに可愛がったはずです。
なのに、息子が成長して 自分より背が高くなった頃には、息子がうっとうしい存在になっている。
息子の方でも、父親というものは まったく煙たく煩わしい存在です。

山田洋次監督の 「息子」 という映画についての 中島みゆきのコメントが、思い出されます。

とても非難しやすい距離に居て、威厳と隙とをなみなみと湛えて居て、どうしようもなく自分に近い・・・それが息子にとっての父

オスとオスの、どうしようもない関係なのでしょうか。


わたしは、この映画の初めのほうでは、次男に感情移入していました。
てっきり 自分を次男の立場に置いて、この映画を観ていたのです。

ところが、次第に 自分が老父の位置に近いことに 気づきだしました。
自分の父親とおんなじことを 自分も繰り返しているのです。

孫が覚えているのは 祖父母まででしょうが、あつしにとって、7年前の夏の日、海に近い家で経験したこと、おばあちゃんが紋黄蝶を必死で追いかける姿や おじいちゃんと義父の三人で砂浜に佇んで海を眺めたことや もっと些細なことなどが、いつまでもいつまでも忘れられない記憶として 残ることでしょう。


一観客のわたしの脳裏にも、映画の中の一つ一つの場面が まるで自分の記憶であるかのように、刻み込まれています。

そんな、今もわたしの脳裏をゆっくり通り過ぎていくような、いい映画でした。