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この体しか生きる道具はない

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<人間は自然の中の弱い一本の葦にすぎない。 しかしそれは考える葦である。>

パスカルのパンセに書かれた 有名な言葉です。

若い頃、その意味を十分理解もせずに この言葉が好きでした。
自分という この弱い 『個』 を 目に見えない偉い人に認めてもらっているような、そんな気分に酔えたからでしょうか。

個性を磨けるのは その 『個』 が “考える葦” だからだと、一人合点したのです。

個性的な人間になりたい、その思いは、平凡という言葉への憧れと矛盾しながらも、 若い肉体を持つ時代の 主題でした。

今から思えば、頭でっかちの 不恰好な考える葦でした。


若い肉体の時代は、自分の肉体を 個性発揮の格好の手段とは考えても、自分の本質だという思いには 到底 至りませんでした。
肉体は、傷めつける対象ではあっても、 “考える葦” のような崇高な対象には なり得なかったのです。

時が経て、崇高と思い続けた 頭でっかちの考える葦が 次第に胡散臭くなり、その隷属者としての重みしかなかった肉体が 悲鳴をあげだすようになって 初めて、 己の肉体の神秘に愕然とします。

ほんとうは この驚愕も、 “考える葦” だからこそ 得られる 「生きる喜び」 の一つと 考えるべきなのでしょう。

自分という存在は 自分の肉体を抜きにしては語れないし、この肉体こそが 自分の本質ではないのか、そう思い至ったのです。

自分の肉体からは どう足掻いても、生きている限り、逃げることはできない。
「私」 という 『個』 は、個性うんぬんより先に、人間という種族の動物であり、他の多くの 「他人」 と同じような器官をもった生命体であること、
そのことを、蔑ろにし続けられた己の肉体の悲鳴で 思い知らされました。

この思いは、気功太極拳と出会うことによって 一層強まります。

老若男女に関わらず、耳は二つに目も二つ、口の上に鼻があって 腐ったものを食べる直前に察知でき、呼吸で大気から酸素を体内へ取り入れて 体内のエネルギーと炭酸ガスに分解して 炭酸ガスを体外へ放出して・・・
考えれば考えるほど 神秘に満ちた、この 「私」 という身体。

同時に、わたしと同じような身体をもつ 「他人」。


誤解の “考える葦” に現を抜かしていたときは にっくき奴と思っていた 「他人」 も 実は自分とおんなじ身体を持った 『個』 であることを覚って得る、同朋的感情。

それは、赤子の尻に同じ蒙古斑をもつモンゴロイドの人々に 親しみを覚えるのに似ており、 これも 考えれば考えるほど 神秘に満ちています。

気功太極拳は、わたしがこれらの神秘を納得する 助けとなっています。


そんな折、定期購読している雑誌の ある記事の見出しに、ふと目が行きました。

< この体しか生きる道具はない >

これは、きくち体操を創始された 菊池和子さんが、その著書で語られている言葉です。
気功太極拳と出会う前に もしこの言葉を聞いたら、「老化を免れた残りの機能を大切に生きるしかない」 といった、 消極的な受け取り方をしたと思いますが、今はちょっと違います。

この体の肉も骨も血も 自分固有のものであり、これこそ わたしの個性そのもの。

この体しか生きる道具はない というのは、まさしく わたしの個性を貫いて生きることに
他ならないのです。

< この体しか生きる道具はない >
含蓄に富む 深い言葉です。