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体として人間らしく生きたい

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入れ歯を毎日ちゃんとしていないと、舌が奥に引っ込んでしまって、死に顔がうまく化粧できない。
敬老の日のラジオ特番で、そんな話を耳にしました。

柔らかい体でないと 棺桶の狭い空間に 上手に納まらない、とも聞きました。
柔らかい体、それは柔らかい関節をもった体、ということらしいです。

体として 人間らしく生きたい
これが その特番の締めくくりでした。
この 「体として 人間らしく生きたい」 という感覚は、ついこの間 感じた感覚でした。

こんな話に ついつい耳を傾けたのも、その直前に 映画 『おくりびと』 を観たからだと思います。


モントリオール世界映画祭は マイナーな映画のなかから 優れた作品を発掘する というイメージを、 いつの頃からか持つようになりました。
映画 『おくりびと』 が その32回グランプリ賞を受賞したというので、題材に少々抵抗はあったのですが、 観にいきました。
“笑って、泣けて、深く心を打つ” 、実にいい映画でした。


人間いつかは必ず棺桶に入るのですが、あの狭そうな筺体のなか、そこにある最後の自分の姿を 今まで想像したことはありませんでした。

わたしは この映画を観ている間、「おくりびと」 よりも 「おくられびと」 に 気持ちが移入している自分に、 あとで気づきました。
かなり変ですが、死体が 気になったのです。

映画の中の(生きている)登場人物も、またそれを観ている観客も、「おくりびと」の所作が気になりながら、 彼のいわば作品である 綺麗な 「おくられびと」 に吸い寄せられます。
そして、「おくられびと」 の在りし日の姿を想い 涙します。

それは 生きている側の感情であって、そのときは 崩れんばかりに嘆き悲しんでいても、1年経ち 2年経ち 10年も経てば おそらく あの時は悲しかったなあ などと回顧する程度に違いありません。
死んでいる 「おくられびと」 は、当たり前ながら 何の感情もないはず。

ご臨終ですの宣告から 火葬場で炉のボタンが押されるまでの 時間にして50時間あるかなしかの短い間の、物体としての肉体は存在するが 感情のない ひととき。

この、感情のない 感情の変化・起伏のない 肉体だけのひとときが、実は ほんとうのその人なのではないか。
この 「死体」 があるからこそ際立つ、「生体」 の証しではないか。

そんな、おかしな考えを 抱いたのです。

人間(正確には自分)の感情というものの不確かさ 脆さ 身勝手さに、愛想が尽きたというか 嫌気がさしたというか。
確かなのは、いつかは死ぬことが決まっている この肉体だけ、という思い。


「おくりびと」 に最後の姿を “化粧” してもらう 数々の「おくられびと」として、映画の中では 腐乱死体の独居老人からヤンキーの女子高生、幼い娘を残して亡くなった母親、たくさんのキスマークで送り出される大往生のおじいちゃんなど、 さまざまな死体が登場します。

トップシーンとラストの字幕シーンに登場する死体、美人だと思ったらニューハーフだった青年の 「おくられびと」 は、パンフレットによると、“絶対に動かない遺体” 役のオーディションで 200人の中から選ばれた白石小百合さんという美しい女性だそうですが、妙な言い方ですが、まことに綺麗な死体でした。

あんなに若くて綺麗な死体には もちろんなり得ませんが、願わくば 穏やかないい顔をした柔らかな死体でありたい。

そのためには、生きている間に 関節を柔らかく保っておかないといけない。
結局、生きている間は 「体として 人間らしく生きたい」、そういうことに行き着くのです。

ご臨終ですの宣告から 火葬場で炉のボタンが押されるまでの短い間の 綺麗な死体のために、ちゃんと生きなきゃならんのだ なんて、バカみたいな考えですが、一理あると思うんです。

禅の言葉に、 < 人間本来無一物 > とあります。
棺桶にいかほど高価な遺品を入れようが、 「おくられびと」 は何の関心もありはしない。
生まれたときと同じ、 < 本来無一物 > の姿、その人そのものなのです。


映画 『おくりびと』 には、 “食” に関わる場面が 多く出てきます。
それも、フグの卵巣の白子や ぶつぶつある鳥肌丸出しのチキンみたいな、生をまざまざと意識させるような食い物を、むさぼるように食うシーンです。

主人公の新米納棺師・大悟(本木雅弘)に向かって、彼の勤め先である「NKエージェント」 つまり 納棺会社の社長・佐々木(山崎努)が、「生き物が生き物を食って生きている」 と語る場面。

それは まさに < 生きるという行為は、それ自体、他者の生をふみにじらずにはありえない > ことを 語っているようです。

死のアンチテーゼとして生きるのではなく、死があるからこそ 他者の死に支えられているからこそ、 しっかり食って ちゃんと生きなあかんのです。

佐々木と大悟が フグの白子を旨そうに食っているシーンで、ふっと 親鸞の教え <悪人正機説 > を思い出しました。


映画 『おくりびと』 は、いろんなことを考えさせてくれました。
そして、なぜか無性に 「体として 人間らしく生きたい」 と思いました。