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裁判員制度

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デイゴが、また 木いっぱいに咲きました。
今年 三回目の開花です。

8月29日に植木屋さんが入って、枝の生い茂るデイゴも まだピンクの花をいっぱい咲かせていた百日紅も、 お見事に丸坊主になりました。
ちょっと残しておいてくれたらいいのに かわいそうに と少々不満でしたが、新芽を力強く噴出させている百日紅や、 三度目の開花を楽しませてくれているデイゴを見ると、 さすがプロの仕事だと 納得しました。
植木屋さんの判断は、かわいそうの感情からは非情でも 結果的に正しかったということなのでしょう。


来年5月から 裁判員制度が始まります。
年間5000人に一人の確率で 私も選ばれないとも限らない。
それも 扱うのは、殺人事件のような重い刑事裁判だそうです。
人ごとのように思っていましたが、ちょっと不安になってきました。

立法、司法、行政、三権分立。
たしか 中学で習いました。
濃度の差はありますが、確かに私たちは、立法や行政には 選挙という形で関わりをもってきました。
そして、司法という分野は、一般には遠い存在でした。
裁判員制度は、この関わりの薄かった司法に関与できる権利だということは、頭では理解できます。
でも、気が重いのです。

そもそも、人が人を裁くということが、私自身 未解決の いや たぶん いつまでも解決できないテーマなのです。
2、3日の裁判参加で、はたして 自分に納得のいく判断が下せるものでしょうか。

法廷では、3人の裁判官と6人の裁判員で判定を下すことになるそうですが、裁判に素人の一般人が 「市民が法廷で見て聞いただけで分かる裁判」 で済ますことができるものなのか。
たぶん 実際には、常識ある一般人なら、事件を克明に調査している 3人の裁判官の意見を 尊重せざるを得ないでしょう。

もし 裁判員が自分の意見を表すとすれば、そこには感情的な要素が かなり入ってくるのではないか。
そんな 感情的な要素の濃い判断で、人が裁かれていいものだろうか。


そんな とり越し苦労みたいな気持ちが、植木屋さんの見事な判断を思うにつけ、自分の感情的な性格を思うにつけ、むくむくと涌いてくるのです。