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クラシックへの誘い

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クラッシク音楽との出会いというものは、まことに運命的である。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲・ホ短調・作品64 という曲がある。
物悲しいヴァイオリンの音色に、心を掻き毟られるような曲だ。

題名は忘れてしまったが ヒッチコックか誰かのサスペンス映画で、これもウラ覚えなのだが 同朋の地下組織に秘密文書を届けるヴァイオリニストの青年に 配達依頼人は 或るクラシック曲を聞かせ、指定された鉄道駅で その曲を奏でよ と命ずる。
届ける相手の名前は、メンデルスゾーンと言った。

悲しい旋律が、忘れられない、あの曲を もう一度どうしても聴いてみたい、 あれは メンデルスゾーンの作品に違いない。

小遣いを貯めて、新京極のレコード店で メンデルスゾーンのヴァイオリン曲を あれこれ聴かせてもらって買ったレコードが、ヴァイオリン協奏曲・ホ短調・作品64 であり、その第3楽章の出だしが あの悲しい旋律だった。


モーツァルトの有名な作品に、アイネ・クライネ・ナハトムジークという曲がある。
ドイツ語で Eine kleine Nachtmusik 、「小夜曲」 と訳されている。

学生時代、ドイツ語会話を 半年ほど習ったことがある。
ドイツ人の若い講師が、不定冠詞 ein の女性変化形 eine を説明するのに この Eine kieine Nachtmusik を引合いに出した。
そして、流暢な日本語で モーツァルトの素晴らしさを延々と語った。

肝心のドイツ語は ほとんど忘れてしまったが、その講師のモーツァルトについての講釈は 今でもうっすら覚えている。
こんな若い講師を こんなに夢中にさせるモーツァルトとは という素朴な関心から、その触りだけでも という気持ちで、たまたま 気のいい友人が持っていた このモーツァルトのセレナード 第13番 ト長調 K.525アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の レコードを借りて、卒業する直前まで 借りっぱなしだった。
お陰で、耳が空暗記するほど この曲を聴くことができた。


中国・南京の近く、揚子江をフェリーで渡って 姜堰市というところを訪ねたことがある。
当社製品の重要な部品の素材を、当時 価格的に有利だった中国産に求めて、現地工場視察するためであった。

平成7年1月12日から16日の、5日間の急ぎ旅であった。
月日をはっきり覚えているのは、帰国翌日に あの阪神大震災があったからだ。

視察を終えて姜堰市から上海まで かなり長い距離を、タクシーで移動した。
何時間かかったか、下腹がキューっと痛くなるような荒い運転に タクシーの後部座席でじっと我慢していた。

車窓から、中国の田舎の ちょうど日本の昭和30年ころの情景を彷彿とさせるような景色を 眺めることができたが、スピードとクラクションの恐ろしさに ほとんどは目を閉じていたように思う。

その耳に、場違いの曲が聞こえてきた。
運転手が、カセットテープで クラシック音楽を聴いていたのだ。
聞き覚えのある曲なのだが、思い出せない。
同行の通訳に、なんという曲か 運転手に尋ねてくれと頼んだ。

ブラームスのハンガリー舞曲だとの答え。
運転は無茶苦茶だが こんな趣味をもっているのかと、とても意外で ちょっとうれしかったことを思い出す。
ブラームスのハンガリー舞曲は、私の好きなクラシックになった。


私は、演奏会というのが苦手である。
まず、長い間 黙ってじっとしているのが つらい。
それに、あの拍手の作法というのが どうしたらいいのか、逃げ出したいくらいだ。
だから、クラシック音楽は 別に音響の整った音楽堂でシャチコばって聴かなくても 一向かまわない と、自分勝手に解釈している。

ベートーヴェンの ハ短調シンフォニーの第1楽章を、浜松の駅前の有料トイレの中で 大きい用を足しながら バックミュージックとして聴いて感激したし、
チャイコフスキーの 変ロ短調ピアノ協奏曲第一番第3楽章を、クリスマス・イヴに ドキドキしながら彼女にプレゼントした喫茶店で流れていた 忘れがたき思い出の曲、くらいの 軽い乗りで聴いている。

素晴らしい音楽の前では 言葉は無能である というが、素晴らしい音楽とは そもそも極めて個人的なものであるから、素晴らしいと感じた本人でないと分からないことだし、当然のことに その感動を他人に伝える手段である言葉は、 無能であって当たり前なのである。
音楽は最上級に有能な表現手段なのだから、初めから 言葉など不要なのだ。


ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを聴いたトルストイは、異常に昂奮して、この奇怪な音楽家に徹底的に復讐しようと 小説 「クロイツェル・ソナタ」 を書いたということだが、この小説を 教養部の夏休みに読んだ。

男性ヴァイオリニストとの合奏に陶酔する妻を 嫉妬から殺した男の告白からなり、男は 結婚、家族、性欲を徹底的に否定し、近代音楽を罵倒する、という筋書きの小説だったが、あのとき私は この小説には昂奮したが、昂奮の延長で期待いっぱいで聴いたクロイツェル・ソナタという曲そのものには がっかりだったし、いまこの曲を聞いても さほど感動しない。


クラシック音楽に限らず、歌謡曲でもポピュラーでも、人それぞれが 特定の場所と時間において出会った音楽は、 その人のものであって、他人が入る余地などありはしない。

その人にとっての素晴らしい音楽とは、そういうものではなかろうか。