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映画『それでもボクはやってない』を観て

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『Shall We ダンス?』 から11年ぶりの 周防正行監督の映画に、観る前から少し興奮気味でした。
やはり 映画 『それでもボクはやってない』 は、とても重い 見応えのある作品でした。
被告人・金子徹平役 加瀬亮の演技が 光っていました。
痴漢冤罪裁判を題材にしたこの映画には、二つの重いテーマが被さっています。
日本の裁判制度の盲点、そして痴漢冤罪の実態です。

二年後に実施される裁判員制度をきっかけに、 国民の目が裁判に向けられ始めたとは言え、私自身、行政・立法に比べ 司法への関心は低く、もし裁判員に選ばれたら勉強と思って参加してみたい などと考えていたのですが、この映画で自分の軽薄さを思い知らされました。
そして、被害者救済への関心と同じレベルの公平さで、被疑者(被告人)にも関心を持つことの大切さを痛感しました。

劇中、裁判官の印象を悪くするといけないから、というセリフがしきりに出てきます。
「裁判官の心証」という問題です。
公判途中で交代した 室山裁判官(小日向文世)の口から突いて出てきた言葉、 『ここは私の法廷です』が、日本の裁判の主役は裁判官であることを、如実に語っています。

そして「人質司法」([注1]参照)と呼ばれる問題。醜い現実です。
もともと裁判そのものに、根本的な誤謬があるのではないでしょうか。
それは 「人が人を裁く」 からです。
裁判官もひとりの人間であることが、根本的な誤謬だと思います。だから、誤審があるのです。
でも、司法行為も人間のなせる業であるならば、裁判を神に託すわけにはいかない。
だとすれば、この誤謬を 最小限のあやまちに止めるための知恵が、人を裁いてきた歴史の中から生まれた法格言、 『十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ』 なのでしょう。
すなわち 「疑わしきは罰せず」 が、人間が行使する司法行為の大原則なのだと、改めて悟らされました。

もう一つの重いテーマ 「痴漢冤罪」 については、私見があります。
痴漢冤罪者も 「痴漢」という犯罪の犠牲者であり、また 痴漢された被害者の誰にも言えない 辛い心情を測れば、痴漢そのものが憎むべき行為であることに異論はありません。

ただ、すさまじい反論を覚悟で言わせてもらうならば、男には潜在的に痴漢行為を犯す要素を持っている。
その本能を理性で抑制しているだけのこと。
ただし、劇中の金子徹平は、この事件発生時点ではそんな感情すら持っていなかったと確信します。
就職活動中のフリーターの彼が履歴書を忘れてきたことが気になって、まして大事なリクルート・スーツが ドアに挟まってしまった状況で、むらむらっと痴漢行為に感情が向くはずがない。

満員電車内の痴漢犯罪は、男女の別なく人と人が異常なまでに接近するという状況、そしてそこに性に関して理性のない男が乗り合わせた(計画的に乗り込んだ)という、シチュエーションが生む行為だと解釈します。
通勤時の女性専用車両は実現されています。なぜ、男性専用車両がないのでしょう。
手を上げた状態で電車に乗り込めば 次の駅で扉が開くまで そのままの格好でいるしか仕方のないような満員電車の中で 若い女性に接触することは、特異な感情以上に、疑われるのはかなわない との思いの苦痛が勝ります。

痴漢犯罪者は、理性の効かない哀れなバカな奴です。
ただ、痴漢行為を犯した者の人格のみを責めることは ちょっと間違っていないか、という気もします。
あす、自分が痴漢冤罪者にならないとも限らない。恐ろしい現実です。

歌人 高柳蕗子の著書 『雨よ、雪よ、風よ』 の中で
「読むことは創るのと同じレベルの創造的文学活動だと思う」とあります。
映画もまた、質の良い映画を観て 自分なりに理解することは、一つの芸術的活動であり、とても楽しいことです。
私は、映画が大好きです。



[注1]
現行犯逮捕された者は、実際に犯人であるかそうでないかに関わらず「被疑者」となり、被疑者が前科者でない場合でも容疑を否認すれば身柄は拘束され、警察署の留置場に入れられます。逮捕から48時間以内に警察署から検察庁へ連れて行かれ、ほかの複数被疑者と『同行室』で全員の取り調べが終わるまでほぼ丸一日待機させられます。
検察庁から裁判所へ被疑者の拘留請求が24時間以内に出され、裁判官は拘留を認めるかどうかを判断するための拘留質問を被疑者に面会して行います。認められれば10日間拘留されることになります。
否認事件では、常態的にさらに10日間の拘留延長が認められることが多く、この拘留期間内に検察官は被疑者を起訴するか否かを決しなければなりません。そして、起訴された被疑者は「被告人」となり、刑事裁判が始まります。
否認事件では、罪証隠滅の恐れがある(被害者と接触して被告人に有利な供述をさせる)などの理由で、ほとんどの場合、被害者証言が終わるまで、保釈請求が認められません。つまり、罪を認めなければ留置場からずっと出られず自白を迫られる、これを人質司法と呼ぶのだそうです。日本の裁判制度の盲点といえます。
(『それでもボクはやってない』パンフレットを参考にしました)