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危なっかしい米粉麺ブーム

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いま、ちょっとした米粉麺ブームが起こっている。
貯え余った古米、古々米を粉にして、それから麺を作って 市場に出そうというものである。

当社も この動きに対応して、製麺に適した米粉の配合を模索し、従来の製麺設備で 小麦粉でできた本来の麺に遜色のないくらいの品質の米粉麺が製造できることを確認している。

ただ、このブームに わたしは疑問をもっている。


一つには、米という穀物の持つ特徴を 無視した製造方法だ、ということだ。
米粉は、麩質、いわゆるグルテンが乏しく、本質的に製麺性に欠けている。
したがって、これのみで常温で麺を作るには、バインダーの役目として ガム質の添加物を 配合しなければならない。

もっとも、ベトナムのフォーのような作り方なら、米粉と水のみで作ることはできるが、フォーにはコシがなく、日本での麺の感覚とは かなり違う。

また、台湾のビーフンも 米粉のみで作られるが、米粉といっても うるち米であって、それに製造過程で デンプンの アルファー化が入るから、これも 日本での麺の感覚と大きく異なる。

いずれにしても、日本のコメは 粒食に適しており、粒で食うのが一番旨い食い方なのだ。
ご飯の大好きなわたしは、炊き立ての ほっかほかご飯ほど旨いものはない と思っている。

一方 麦は、戦前の農家の貧しさから来る質素さを 「百姓は麦を食べてコメを作る」 と言われたように、 また、1960年台の高度成長時の首相・池田勇人が 「貧乏人は麦を食え」 といったように、 粒食としては コメよりずっと下に見られてきた。

しかし、製粉技術の進歩も伴なって 小麦粉から作られる “コナモン”の 食品としての旨さは、 いまやコメを凌ぐ勢いである。
麦は、粉食に適しているのである。

だから、単にいまコメが余っているから、という理由だけで 米粉パンや米粉麺がもてはやされることに、 危なっかしさを感じるのだ。

もう一つには、貯え余った古米、古々米というものの正体である。はっきり言って、これは、これまでの不適切な日本農政のツケではないのか。
そのツケのせいで 米粉麺ブームなどと踊らされているような、苛立ちと空しさを覚える。


コメが米屋でしか買えなかったのは、そう昔のことではない。
米穀通帳という カビが生えたような制度も、1982年に食管法が改正されるまで 存続していた。

食管法は、戦前の米穀統制法を引きずって 戦後の食糧難の時代を凌駕してきた。あの 食べ物の極端に乏しかった時代には、食管法も 重要な役割を果たしたのは事実だ。
しかし、戦後の食糧難の時代を乗り切った日本において、食管法は 国内農業の保護という 本来の役割でない役割に移行する。

「食糧管理特別会計」は、国内産のコメを高く買い取り、輸入小麦を管理下におき、これらを消費者としての日本国民に採算の合わない価格で販売し続けた いわゆる二重米価によって、莫大な赤字を抱えている。

食管法自体は 1995年に新食糧法に移行するが、食糧管理特別会計は いまだに財政再建の 大きな障碍の一つのままだ。

1993年に採択された 「ウルグァイ・ラウンド農業合意」 という、わたしには よく理解できない国際協定がある。
この、自国農業を数量輸入制限で護ることをやめて 関税化して徐々に農産物輸出入を自由化することを目的に定められた国際合意において、日本は、コメだけは例外的に関税化を拒んだ。

その代償として、毎年一定の最低輸入義務量のコメ、すなわちミニマム・アクセス米を輸入する義務を負った。
1999年にコメも関税化して以後も、最終年度(2000年度分)のミニマム・アクセス米を 買い続けなければならないらしい。

世界的な食糧不足のこんにちにあって、日本のコメが過剰だというのに、まともに食えもしない 汚染ミニマム・アクセス米を買い続けなければならないとは、理不尽極まりないことではないか。
この汚染ミニマム・アクセス米の処理に窮した末のぶざまな社会問題が、このたびの汚染米騒動である。

歯がゆいことだが、この汚染米問題が浮かび上がらなかったら、わたしを含め ほとんどの日本国民は、上記のような事情に関心をもたなかったであろう。

日本の土壌で、麦は立派に育つはずだ。
麦を輸入に依存ばかりせず、なぜ、休耕地となった土地で 麦を作らないのか。
だいたい、減反政策の産物である休耕地そのものが、クエスチョンの塊だ。
農業の そして政治の理解度の低いわたしには、不可解なことだらけだ。


米粉麺ブームを考えるにつけ 思い出されるのは、昭和28年の夏に 降って涌いたような「人造米ブーム」である。この年は、未曾有の凶作年であった。
昭和28年9月9日の読売新聞の切り抜き記事が、手元に残っている。

『 今年は凶作というかけ声だけでお米のヤミ値がピンとハネ上がった。そこへ “人造米” がダークホースの勢いで登場してきた。
「安くてうまくて栄養になる。農林省では助成金を出す」という評判に業者は人造米の特許権をめぐって暗躍をはじめた。
農林省までがこの特許権買取りに乗り出すなど、虚々実々というから “人造米” はいまや狙われた ニューフェースというところ。
沖縄や朝鮮にもゆく“人造米”は果たして新しい食糧時代を生むだろうか。・・・』


一時は 天皇ご一家もご常食されたという “人造米”は、その翌年の豊作で 割れた風船のごとく消え去ってしまった。朝鮮戦争終結の年のことであった。
残ったのは、鉄くず同然の 「人造米製造機」 の山のみであった。


実は、当社は この人造米製造機に深く関わっていた。
まだ10歳そこそこの子供であった わたしの記憶にも、工場の倉庫に所狭しと在庫された「人造米製造機」 の残骸や格好の遊び場所であった資材置き場に 山積みされた錆びた部品の塊が、残像としてある。

人造米は、小麦粉やでんぷん、砕け米を配合して作った擬似米である。
米粉麺と人造米の 非にして似たるもの、そして 両ブームの発端が 酷似しているのだ。

昭和28年の前後 小麦粉は、世界的な豊作に加え、朝鮮戦争終結による進駐軍の払い下げ小麦もあって あり余る状態であった。
一方 コメは 大凶作で、上記新聞記事にあるように ヤミゴメの価格が急騰する状態であった。
コメと小麦を逆にすれば、同じような状況ではないか。


火の消えたような工場に隣接する我が家で、 連日 砂を噛む思いで囲んだ夕食時、 酒に紛らわせながら語った父の 「政府に踊らされた」 という言葉が、耳にこびりついている。

時代の潮流を読むことは、事業を成功に導くリーダーの務めであることに 間違いはない。
ただ、ブームに乗り遅れるな式のやみ雲な追随は、ブームに流される危険を孕んでいることを 胆に銘じなければならない。