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ただいま!

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重松清の短編 『家路』 を読んでいて、気づいたことがあります。
それまで 頭のどこかでぼんやり描いていた あったかい空気の塊みたいなものが、言葉では表現し切れていなかったのに、いま はっきりイメージできた、と言ったほうが 適切かもしれません。
それは、しあわせの正体です。

しあわせって、なんだろう。
みんな、このことについては いろいろ考えているんだろうけれど、 口に出して言うには 照れくさいし、 格好悪いし、 邪魔くさいし、だいいち そんな腹の足しにならんこと どうでもいいよ・・・
そんなところなんだろうと思います。

わたしも、似たようなものでした。
そのくせ、だれもが しあわせになりたいと思っている。

重松小説 『家路』 が教えてくれた わたしの思うしあわせは、
「ただいま!」「おかえり」 でした。


ずっと前にみたテレビドラマで、題名もあらすじも忘れてしまったけれど、あるシーンだけ 鮮明に覚えています。

妻を亡くした 渡哲也演ずる中年男が、居酒屋で知り合いに こう話します。

「朝 急いで家を出るとき、カッターシャツの袖のボタンが取れたんだ。
廊下に転がっていたけれど、邪魔くさいから そのまま出てきちゃった。
帰宅したら そのボタンが家を出たときとおんなじ格好で廊下に落ちているんだよ。
そのとき つくづく思ったね、あぁ俺 ひとりなんだなぁって・・・」



「さよなら」 という日本語は、美しいです。
でも 「さよなら」 は、しあわせからは 遠いところにあるように思います。
帰るところのない、もう会えないかもしれない、そういう悲しさを秘めているからです。

「家族には 『さよなら』 っていう挨拶はないんです」と、小説 『家路』 は教えてくれます。
「さよなら」 ではなく、「いってきます」 と言えるなら、きっと 「いってらっしゃい」 と言ってくれる人が いるでしょう。
「ただいま」 と言って 「おかえり」 と応えてくれる人がいてくれることが、どんなにしあわせなことか。

わたしのしあわせの正体は、「ただいま」 と言えること、そして それに「おかえり」 と応えてくれる人がいてくれること、
そういう家族があること、そう 確信しました。