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天平の甍

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井上靖の小説に、 「天平の甍」 という作品があります。
天平の昔、聖武天皇の命を受けて 唐より高僧の来朝を実現すべく、僧・栄叡、普照ら若い僧たちが、 在唐二十年の末に 鑑真和上を招聘するまでの、木の葉のように翻弄される彼らの運命を描いた作品です。

その鑑真和上が開いた寺、唐招提寺を、最晩秋の小春日に訪ねました。
唐招提寺は、過去2回尋ねています。

1回目は、昭和35年10月27日 (朱印帳に残っているので明確なのです)。
その朱印帳には、金堂の鴟尾の形の朱印の上に 盲目の鑑真和上像を称えた芭蕉の句が、 流れるような細筆で記されています。

若葉して 御目の雫 ぬぐはばや


2回目は、42年前 サークル活動で。
そのとき わたしは、奈良・西ノ京の当番でした。
薬師寺とともに この唐招提寺に関する資料を 短期間でかき集めて、にわかガイド役を務めました。
そのとき拝したはずの 鑑真和上像も 本尊・盧舎那仏像も、すっかり記憶から失せています。
ただ、金堂 (この名前すら定かでなかったのですが) の屋根の稜線の美しさだけは、 記憶の底にありました。


平成7年に、仕事で中国江蘇省姜堰市というところを訪ねたことがあります。
北京から南京へ飛び、南京から車で東行して、鎭江というところで 黄土色の大河、長江 (揚子江) をフェリーで渡りました。

張宝健という 30歳を少し出たくらいの、北京対外科技交流中心の青年技師が、同行してくれました。
張さんは 最初、日本語の達者な通訳の喬くんを通じて わたしと話していましたが、わたしが かたことの英語が話せると気づいてからは、分かりよい きれいな英語で話しかけてきました。

半分も理解できていなかったと思いますが、張さんは 日本の歴史や文学にたいへん興味があり かなりの知識を持っていることが伺えました。

長江の対岸へ近づいたころ フェリーの甲板で、彼が
「ここは、日本へ何回も行こうとして失敗した鑑真が、最後に日本へ渡った乗船場です」 と話すのを、 長江を流れる風音に邪魔されながら なんとか聴き取ることができました。

長江を渡って揚州市にさしかかったころ、張さんはこんなことを言いました。
「ここに大明寺というお寺があります。鑑真はこのお寺にいたんです。行ってみませんか」

あのとき、姜堰市での夕食会の予定が無かったら、大明寺を訪ねることができたのに と、 悔やまれてなりません。

揚州市を過ぎて 昭和30年ころの日本を思わせる風景を車窓から眺めながら、張さんは
「チャンスがあれば、日本の唐招提寺というお寺を訪ねてみたいです」 と言いました。
彼が、遠い昔 日本を精神的に導いた鑑真和上を、誇りを持って 心から尊敬していることを、 ひしひしと感じました。

「日本へ来られたら、わたしが唐招提寺を案内します。」
あの 勢い込んだわたしの約束は、まだ 果たせていません。


唐招提寺の金堂が110年ぶりの大解体修理され その外観が見られるようになったという報道が、今回の訪問のきっかけでした。

本尊の盧舎那仏像は まだ観ることはできないと思っていましたが、鑑真和上像が 御忌日 6月6日の 前後1週間しか拝することができないとは 無知でした。

ほぼ全容を現した金堂を中心に 静寂なたたずまいを見せる境内は、律宗の厳しい修行道場にふさわしい威厳と神々しいまでの風格を備えています。

鑑真和人像を拝顔できなかったことは 残念ですが、この伽藍の中に佇めただけでも、 今回の訪問の甲斐がありました。
ことに、礼堂東室から舎利殿越しに見る金堂の屋根の 大らかなこと。
「天平の甍」 という言葉が、こんなにふさわしく こんなに似合う屋根は、他にありますまい。

張さんに 見せてあげたい、無性に彼に会いたくなりました。


~ 小春日の 碧空を射る 古刹鴟尾 ~ 佐々連