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中国残留孤児

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幼い頃、私は泣き虫だったらしい。
やさしかった祖母ですら 「男はそう簡単に涙を流すもんじゃありません」 と、しょっちゅう私を諭していた言葉が、耳の底にへばりついている。
涙もろいのは今も変わらないが、そういう涙とは異質の 胸の奥底から突き上げてくるような 涙が目を熱くすることが、戦後60年以上経った今も消えない戦争の傷跡には、あまた存在する。
その大きな一つが、中国残留孤児の惨めさを思うときである。

中国残留孤児国家賠償東京訴訟の判決が 1月30日 東京地裁であった。
「国には早期帰国を実現したり、自立を支援する法的義務はない」
「原告らの被害は(国民が等しく受忍すべき)戦争損害に含まれる」
という、原告全面敗訴の判決であった。

広島と長崎に落とされた原爆の被害者救済の不備を訴える運動、東京や大阪などの空襲被害の責任を国に求める運動、いずれも心底応援したい。
つい、旧軍人軍属またはその遺族に支給されてきた恩給の手厚さと比較してしまいたくなる。

中国残留孤児国家賠償問題が 「国民が等しく受忍すべき戦争損害」 として同列に流されてしまうことには、どうしても感情的に承服できない。
ちょっと生い立ちが違えば、私も同じ孤児のひとりになっていたかも知れないという、同世代感からだけではない。

旧満州(中国東北部)に農業移民を開拓団の名のもとに多数送り出したのは、傀儡国家・満州国が建国された1932年から20年間にわたって国が推し進めた重要国策であった。移民総数24万人といわれる。
昭和恐慌で困窮した農民を救済するという理由はあったにせよ、国境を接して緊張関係にあったソ蓮軍との有事に 備えることが狙いであった。
終戦直前の1945年8月9日、旧満州にソ連軍戦車がなだれこんだ。
精強を誇った関東軍はなすすべなく崩壊し、100万人を超える開拓民とその家族が砲火の前に放り出された。
殺戮と暴行、略奪の中で 親きょうだいを失いながら、必死で生き延びた子どもたち、それが、中国残留孤児なのである。

引き揚げ途中でやむなく子を手放さなければならなかった親の心情、親を失って中国人に助けられた子、いずれも 生き地獄であったろう。神経を集中して、周りの数少なくなった引揚者の話を聞き、藤原てい著 『流れる星は生きて
いる』などの記録を読んで、当事者の嘗めた辛酸を想像するしかないが、想像するだけでも、胸が掻き毟られる思いである。

1972年に日中国交正常化して9年後の81年に、国はやっと本格的に残留孤児の調査を始めた。
孤児はすでに40歳前後になっていた。もう人生の半ばを過ぎているのである。
母国語の日本語を話すことも叶わず、日本に永住帰国できたとしても どうしてまともに生きてゆけよう。
国は、彼ら孤児を40年近くも見捨てていた責任がある。

いま、子供の自殺が問題になっている。作家の塩野七生が、五木寛之との対談で 「自殺者が多いのは平和の証拠」と語っていた。危ない発言だが 一理ある。
あの孤児らは、飢えと怯えで自らの命を経つすべさえなかった。

民間が援助する能力には、限りがある。国には、親身な“判決”を下していただきたい。