いまどきの内閣総理大臣 |
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「楽は下にあり」とは 言い古された言葉だが、上に立つ者の苦労は 小さな企業体やNPOであっても 筆舌に尽くしがたいものがある。
ましてや 一国の総理大臣となれば、その気苦労や体の酷使は、常人の想像を絶するに違いない。
筑紫哲也が闘病生活を綴った 「残日録」 を読むと、福田前首相に宛てた手紙で 福田氏への親近感を込めて、こう記している。
・・・これから長丁場ですから、老婆心ながら、二、三申し上げますと・・・
怒ってはいけません。
「韓信の股くぐり」をやっているだけに、そして本来は気短かだという見方もあるだけに、いつキレるのか 手ぐすね引いて待っているような空気があります。
怒気を外に出したら大人には見えないのですが、歴代の総理を拝見していますと、この人がと思う人でも、うっ積がたまっていくものです。
それをあまり我慢するのも、身体によくありません。
秘訣は本当に怒らないことです。
口さがない批判、非難の大部分は、それを口にする者の身の丈、思考の水準に見合ったものでしかない。
そんなものに自分がとらわれてたまるか、と思えばそう腹も立たないでしょう。
総理大臣というお仕事は、それより遙に次元がちがうのですから。・・・
筑紫さんらしい 心のこもった文章で、これを受取った福田前首相は どれほど慰め励まされたことであろう。
そんな筑紫さんも、福田政権のわかりづらさが露呈しだした 07年末の、深刻な病状をひた隠して出演した 福田首相との特別対談収録直後の残日録では、
・・・ヌカにクギというか、ノレンに腕押しか。
「何をやりたいのか見えない」 「何を人々が求めているのかわかっていないのでは」という 世間の疑念は拡がるだろう・・・
と書き綴っている。
筑紫さんの心配通り、福田前首相は、本人は 「私は冷静にものごとを判断できるんです」 と切り口上したが、誰が見ても “キレて”、その地位を捨てた。
あれは、無責任といわれても 仕方なかろう。
麻生太郎現総理大臣に、わたくし的には好感を持っていた。
筑紫さんのように 深い思慮と密接な情報で判断できるはずもないが、麻生首相は 平時の総理としては適材であろうが、いまどきの総理としての頭脳は もちあわせていないのではないか、と
いまは考えざるを得ない。
彼を真剣に支える優秀な頭脳も、周りに見当たらない。
この日本を まっとうな方向へと大きく導く気迫も、いまの彼に感じられない。
麻生内閣も自民党執行部も、渡辺嘉美氏の行動を 思慮のない取るに足らない異分子行動と 批判している。
ほんとうに そうなんだろうか。
渡辺氏の考えをしっかり知りたくて、文芸春秋の最新号で 彼の言いたいことを自分なりに理解した。
「百年に一度の非常時には百年に一度の政策を」
「官僚内閣制から真の議院内閣制へ」
「官僚主導から政治主導へ」
「中央集権から地方主権へ」
彼の考えは、彼自身も記しているように、これらに尽きる。
わたしは、渡辺氏の考えに理不尽なものを感じない。
いや もっと積極的に、漠然と考えていた私自身の思いと一致する。
とりわけ、渡辺氏の次の危惧は、まったく同感である。
・・・頻発する身勝手極まりない殺人事件の報に接するたび、その不気味な兆候を感じずにはいられない。
また、『田母神論文』 への一部賛美に象徴されるような社会の右傾化もその一つの顕れかもしれない。
渡辺氏の行動が、いまこの時点で適切なものかどうか、それは分からない。
ただ、ここ数ヶ月のうちに間違いなく実施される衆議院総選挙で、彼の考え方は 自分が誰にどの党に 投票するかを判断する一つの指針になる、と わたしは思っている。
我が国の選挙制度は、総理大臣を直接選ぶものではない。
しかし、渡辺氏のいう “真の議院内閣制” であるならば、自分が選んだ国会議員を通して この国を 本当に背負ってくれる “いまどきの内閣総理大臣” を生むことができる、と信じたい。
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