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鉄エレジー

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男が女になりたければ不可能ではない。国籍だって それ相応の手段を用いれば変えることだってできる。
でも、自分が生まれた時代を変えることは誰にもできない。

日曜日夜のテレビドラマ 『華麗なる一族』 が高視聴率で放映されている。
高度成長期の日本、つまり鉄の時代を背景に描かれている。折りしも団塊の世代が退職を迎える時期にある。
マスコミも特集を組んで、この世代が持つ意味を問うている。
団塊の世代は、実は鉄の時代の恩恵と矛盾を浴びた人々であって、語弊はあろうが この時代の 「犠牲者」 なのかもしれない。
彼らより2、3年前に生まれた私は、その先頭を走っていたことになる。


戦後まもなく日本は糸偏の時代といわれた。
鐘紡、クラボウ、ニチボウ、東洋紡・・・。そして石炭の時代。
炭鉱の労働争議は、日本中の労働者を権利の主張者にした。
昭和20年生まれの私たちが社会に出たとき、世は八幡製鉄と富士製鉄の合併で生まれた 新日本製鉄を中心に、鉄の時代の真っ只中にあった。自動車産業の黎明期でもあった。

私は早い時期に鉄の中枢から抜けたが、食偏に関わる仕事の中で鉄偏の続きをしてきた。
だから、平成元年 新日鉄釜石の高炉閉鎖のニュースは、衝撃だった。
ああっ、ついに鉄の時代も終りか との感慨である。

鉄は 他の金属に比べて、強度、埋蔵量、リサイクル性、熱処理による変化性質の多様性など、総合的に見て きわめて優れた金属である。
私の鉄に対する思いは、一種の崇拝に近く、かって社名をはやりのカタカナに変更しようとの 若手社員の提案をわがままながら却下し、鉄工所の名前を存続させた経緯がある。

人は誰しも、その時代時代を生きている。
時代に棹差して生きることは、賢明な生き方ではないと思っている。
次の世代から見れば歯がゆくとも、時代に流されながら生きざるを得ない。
私も、鉄の時代にどっぷり浸かっていた。それなりに生き甲斐もあり、楽しい思い出も多い。
この時代の功罪に関わらず、私は この時代とこの時代を生きた同世代の人々に、血縁的な親しみを感じる。

武術者 甲野善紀と 漫画家 井上雄彦の対談 「武術への招待」(宝島文庫)の中で、甲野氏が語っている言葉に 強い共感を覚えた。

『良くも悪くも私には古い価値観があるし、いまの時代、存分に展開していくには、絶対にそれが邪魔していると思います。
私を支持してくださる多くの人々は、私が「いまの中高年世代が持っている固定した価値観に縛られていない」と言ってくださいますが、世代を共有している古い考え方は抜きがたくありますし、それが私の限界になっている面は否めません。
なにしろ、それを悪いと思ったら変える可能性もありますが、私にはそれを捨てる気がないですからね。
いまの時代に対して 私が「こうしたらいいんじゃないか」という提案はあくまでヒントです。
それが正しいかどうかは、もちろん自信はありません。
ただ、自信はないけれども誰と議論してもそれが潰されることもない。
そのくらい私の中で考え抜いてきました。』


私も、あの時代を 『そのくらい私の中で考え抜いて』 生きてきた、と思いたい。