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村井雅清さんのこと

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今日で、あれから14年になる。
阪神淡路大震災。


16日付の朝日新聞で知ったことだが、11、12日、西宮市の関西学院大学で 「災害復興制度研究フォーラム」 が開かれた。
大規模災害が世界各地で頻発する中、国家や民族の壁を越え、 どのように国際支援に取り組んだらいいのか、熱くディスカッションされた、と報じている。
姜尚中氏が特別講演をし、シンポでは、海外支援の現場で活動するNGOスタッフや研究者らが 体験や意見を述べあった、とある。

このフォーラムのプレセッションをつとめたのは、村井雅清さん、58歳。
村井さんの顔写真と略歴と、プレセッションのやり取りのエッセンスが、紹介されていた。
ぐっと 懐かしさがこみ上げてきた。


あの大震災からまもなく、神戸市兵庫区にある須佐野公園に、 「ちびくろ救援ぐるうぷ」 という ボランティアグループができた。
須佐野公園の横にある 「ちびくろ保育園」 の園長先生たちが、須佐野公園に寄り集まった 行き場を失った人たちを、見るに見かねて自発的に立ち上げたグループだと、ずっとあとになって聞いた覚えがある。

村井雅清さんは、当初 このグループの立ち上げに参加され、保育園へ全国から続々と届く支援物資と 駆けつけるボランティアの人たちの調整役をされていたそうだが、わたしが JRと阪急電車を乗り継ぎ乗り継ぎして 須佐野公園にたどり着いたときには、彼は 仮設住宅支援連絡会の代表として、神戸のあっちこちの被災地区を駆け回っていた。

わたしが 「ちびくろ救援ぐるうぷ」のリーダーから指示された仕事は、地元の関学や 遠くは青森の弘前大学から来たボランティア女子学生さんたちとペアーを組んで、他の数組のペアーとともに ひとり暮らし老人リストを見ながら区域ごとに順番にお年寄りを訪問し、 足湯をしてあげることだった。
お年寄りの安否を尋ねる、という役割もあったと思う。

わたしは、仕事の都合もあって 毎週土日しか手伝うことができなかったが、ペアーの相手は 必ず若い女子学生さんで、それは お年寄りを怯えさせない配慮だった。
このとき わたしが身にしみて学んだのは、ひとり暮らしのお年寄りたちが望むのは、足湯という行為もうれしいが 親身になって自分の話しに耳を傾けてくれる相手の存在だ、ということだった。
あんなにごった返す被災地に出向く若者、それも女性は みな、お年寄りたちの心を ほんとうに柔らかくとらえていたように思う。

わたしは 運転手するのが精一杯だったが、それでも つとめてお年寄りに話しかけるようにして、 5回目の訪問のとき足湯をしてあげているお年寄りが わたしの頭の上でやっと聞き取れるような声で 「アリガト」 と言ってくれたのが、うまく表現できないんだけれど、ぎゅーっと目頭が熱くなるように うれしかった。


村井さんは、ときどき須佐野公園内に設けられた 「ちびくろ救援ぐるうぷ」の詰め所に立ち寄って、リーダーたちと 支援の状況や今後のやり方なんかを 相談しているようだった。
あれは、暑い陽射しを頭のてっぺんにジーンと感じていたから、初夏のころだったと思う。
村井さんが、男手が十数人必要と 召集をかけた。
アルジェリアから援助として届いた軍用テントを、山手のほうの学校(うっすらとしか覚えていない)の 運動場に張る作業の手伝いだった。
村井さんが運転する8人乗りのボックスカーに、男(ほとんどが学生さんだった)が11人乗って、現地へ向かった。

20帖以上もある、大きなテントだった。
あちこちの支援グループから集まった男たちで この大きなテントを張り上げるのだが、これが けっこうむずかしい作業だった。
床は 地面からの湿気を遮断する工夫がほどこされていて、内装もしっかりしたテントだったが、夏の盛りは 暑さでたいへんだろうなぁと、缶入りコーラを飲みながら 一緒に行った若者と 流れる汗を拭き拭き 話したのを覚えている。

テントを張り終えたのは、もう夕方になっていた。
帰る途中で 村井さんは、同乗のみんなを 銭湯(クアハウス?)に連れて行ってくれた。
ゆったりした湯船に みんなでつかりながら、村井さんは ぽつりぽつりと被災時のことを話してくれた。

彼は、これは ずっと後で知ったことだが、神戸港の港湾作業員や ケミカルシューズ会社の営業マンを経て、地震までは、小児まひなどで足に障害のある人へのオーダーメードの革靴をつくるお店の職人兼経営者だった。
地震当日は、仕事で東京にいた。
さいわい 山手にある自宅は 被害は軽かったが、彼の仕事場も 「靴の街・長田」も 壊滅的打撃を受けた。
湯船に首まで深くつかって 大きな両手で湯を顔にゆっくり掛けながら、彼が語ってくれたつぎのひと言は、いまでも わたしの心に響いている。

「死んだ人たちは苦しかったやろなぁ。生き残ったもんも、苦しゅうてしょうがないわ。」

JR宝塚線の惨事のときも、生き残った人たちの苦しみは、直接関係していなかったものには とうてい想像がつかないものだろう。
村井さんも、あのとき ぶっ倒れるくらい支援活動に奔走されたのは、それと同じような やり場のない感情からもあったのでは なかっただろうか。


アルジェリアテント張りの日から わたしが村井さんにお会いしたのは、須佐野公園の詰め所で2回ほど ひとことふたこと声を交わしたくらいで、夏が終わる頃には、仕事に追われだしたわたしは もう須佐野公園を尋ねることはしなくなった。
だから、村井さんのその後も 知らなかったし、正直 忘れていた。

16日の新聞に書かれた彼の経歴は、 「阪神大震災後から救援活動に取り組む。被災地NGO恊働センター代表や神戸学院大学客員教授なども勤める」 とある。
あの震災は、村井雅清さんにとって、わたしごときには計り知れない 深い人生の転機であったのだろう。

村井さんのご活躍を、尊敬をもって お祈りしたい。