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古代仏に魅せられて

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身の毛のよだつ報道が あとを絶たない中で、痛快なニュースがありました。
痛快などと言うと 建仁寺の執事長さんに叱られそうですが、建仁寺から十一面観音像を盗み出した男が捕まったいう報道です。

この男、徹底した 「仏像コレクター」 であるらしく、建仁寺からだけでなく東寺や毘沙門堂などからも 仏像を盗んでいたということです。
建仁寺の十一面観音像を一目見てとりこになった、と自供しています。

男の自宅には盗んできた仏像がところ狭しと安置されていて、お供物も供えられており、毎朝拝んでいたといいます。
大きな損傷もなく 各寺に仏像が無事 帰還されたことを、まず喜ぶべきでしょう。

金目当ての泥棒の仕業であれば、今ごろは どこぞの国へ渡っていたかも知れません。
窃盗は もちろん許されることではありませんが、それにしても あんな大きな仏像を傷もつけずに ひとりで盗み出したこの男の執念は、たいしたもんだと思いたくなります。


この男の変質者のような魅せられようでは 無論ありませんが、学生の頃 わたしは、仏像に単純な好奇的興味を 強く持っていました。
仏像って いい格好やん、ってところがありました。
でも 社会人になってからは、仏像から縁遠くなりました。
仏像なんて なに寝ぼけたこと考えとんねん と、まわりも自分も そんなふうに追いやっていましたし、だいいち 仏像を拝するという 気持ちのゆとりすら 持てませんでした。

そしていま 平均寿命が向こうの方に見え隠れしてきて、若いころに こころ惹かれた仏像たちに 無性に会いたくなってきたのです。


わたしは、古代仏に惹かれます。
飛鳥仏、白鳳仏、天平仏。
それらの多くは、やはり 奈良の寺々の仏です。
信仰心は ほとんどありません。
作り手は どのような気持ちだったのだろう、そんな俗っぽい興味から 仏像をながめます。

古代仏のほとんどは、作者不詳です。
そのことが、ますます古代仏に魅せられる原因です。
おそらく 気の遠くなるような時間をかけて、ひょっとしたら 一生涯をかけて、この仏像を 刻みつづけたのだろう。
何を伝えようとしたのか、いや 伝えようなど恣意的な意図を思うのは こちらの浅はかさであって、 ただただ ひたすら祈りの心を彫りこんでいったのだろう、そんな空想にひたります。

作者だけではない、この古代仏を1200年以上もの間 天災や兵火や盗難から護り続けてきた人たちの心が、わたしに 痛いほどの共感を抱かせるのです。


戒壇院の四天王像を、2月28日の午後遅く 奈良東大寺に訪ねました。
近鉄奈良駅から東へ 登大路から知事官舎などの並ぶ 格調ある街並みを抜けて、右手遠くに 大仏殿の金色の鴟尾を眺めながら、北に向かいます。

正面に、戒壇院への幅広い石段が見えてきました。
数多くある奈良の好きな風景のなかでも、この 清楚なお堂を石段の下から仰ぐスポットは、なんどでも訪ねたくなる親しみを感じます。

戒壇院は 鑑真和上ゆかりの建物ですが、幾度もの火災に遭い 現在のものは まだ300年も経ない再建造物だそうです。
でも、まことに質素で簡素なこのお堂は、鑑真の神聖な人物像をうかがわせてくれるようです。

そとの明るさに慣れた目に お堂の中の状況が瞬時把握できず、ただこうべを垂れて 幾ときかを経て見上げると、中央の多宝塔を囲むように安置されている 四体の四天王像が、暗さにしだいに慣れてきた瞳孔に 浮かび上がってきます。

当初戒壇の四隅を護っていた銅造の四天王像は 罹災・焼失したらしく、いま壇上安置の この四天王像は塑像で まさしく天平の様式を示すものですから、近世再建時に東大寺の他堂から 移安されたものと考えられています。

わたしは、この四体の像のみが安置されている戒壇院堂内の雰囲気を こよなく愛します。
そして、今に残る四天王像の古代仏の中で この戒壇院四天王像が 一番好きです。

とりわけ、口を強く結び 眉を寄せ 瞳を上にはるか彼方に視点を向けている 広目天・多門天像の おっさん的顔の表情に、なんともいえない親しみを覚えるのです。
寄せた眉根、頑固なまでに張った顎 そして口を引き結んで生ずるその筋肉の収縮、額に刻まれた一条の皺・・・
蝋人形の写実ではとうてい到達できない、こみ上げてくるような内面的リアリティです。
作者の巧みに、戦慄せざるを得ません。

顔の表情だけではありません。
東大寺南大門を護る運慶作仁王像のような 緊張させた筋肉を誇張するでもなく、興福寺の定慶作金剛力士像のような いまにも鮮血が吹き出るかのような血管を浮き立たせるでもなく、統制と制約が行き届いた それでいて内臓の鼓動が聞こえてくるような、体躯。
そこには、瞬間の動態を理想的に永遠化した、自然かつ簡素無類の動きが感じられます。
すばらしい表現力です。

この天平仏に会えただけで、大満足の一日でした。