ちょっとショッキングな悩みのレッスン |
文字サイズを変える |
  |
歌う道化師こと 明川哲也さんが、朝日新聞の毎週土曜日夕刊で、29歳までの投稿者の悩みに答える 「悩みのレッスン」 というコーナーを受け持っています。
「つながるテレビ@ヒューマン」 というNHK番組の 『哲也の陽はまた昇る』 で 彼のヒューマンな輝きに心引かれて、この新聞コーナーも欠かさず読んでいます。
前回の20歳の女子大生の質問は、ちょっとショッキングでした。
《Q》
命をすばらしいととらえる社会通念に反対です。
単にセックスという穢れた行為の結果でしかないのに、なぜそれを神聖化しようとするのでしょう。 生まれる前の世界では幸せを享受していたかもしれないのに、胎児本人が望むと望まざるに関わらず、有無を言わせず強制的に、この世という苦界に子を産み落とす。これが暴力でなくて、何でしょうか。
だから赤ん坊は 泣きながら生まれてくるのだと思います。
「子を産むことは殺人よりもひどい、最大の暴力である」と私は思うのですが、なぜ誰も疑問を抱かないのでしょうか。
うーん、と 唸らざるを得ません。
鋭いとは思うのですが、悲しいです。
この質問に対して 明川さんは、宇宙が創ったこのちっぽけな人間の傲慢さを認めながら、生みの親の大宇宙を認識するのは 他でもない このちっぽけな人間であるとの「人間原理」
から、彼女の問いに おだやかに答えようとしています。
そして、こう結んでいます。
《A》
・・・あと30年して、まだあなたもボクも生きていたら、もう一度意見の交換をしませんか。
もし あなたの考えが変わっていたら、あなたの内部で起きた革命に拍手。
もし変わっていなかったら、その強靭さに黙って頭を垂れましょう。
その時ボクは76歳。もう少しましなことが言えるようになっているかもしれません。あるいは変わらず、「月や星々に善悪がないように、あなたもただ懸命に生きてきた。そして50歳になりましたね。おめでとう」
と言うかもしれません。
さすが、明川さん。
もし わたしが こんな質問を浴びせられたら、きっとタジタジで、ダンマリを決めこむだろうと思います。
それは、異邦人に対する無視黙秘ではなく、自分に潜む暗部を暴露された驚きから、みたいなものだからです。
彼女は女性だから 子を産むということに 集中的に疑問が向けられていますが、やはり 根底は人間不信、それが跳ね返って 自己嫌悪、行き着くところは
人間嫌いなのでしょう。
中島みゆきが歌う 『誕生』 の歌詞を、思い出します。
Remember 生まれた時 だれでも言われた筈
耳をすまして思い出して 最初に聞いた Welcome
質問者の彼女の生い立ちは わかりません。世の中には ええっと思う出自の人がいます。
でも、彼女もきっと祝福されて生まれてきたと思いたい。最初に Welcome と聞いたと、信じたい。
「誰のお陰で そこまで大きうなれたと思てんねん」 わたしも、小さい頃 父親からこうなじられたときは、
「こんな世の中 生まれて来とうはなかったわい!」と、なんど小さな胸を震わせたか知れません。
長じて 家庭を持ち、子供が生まれ その子が小面憎い小言を言うようになると、自分が受けたあの痛みをすっかり忘れ去って、自分が父親から言われたとおんなじ文句を
我が子に浴びせているのです。
『親が子どもにしてやらんといけんことは、たった一つしかありゃあせんのよ。』
『子どもに寂しい思いをさせるな』
重松清が小説 「とんび」で こう語りかけているとおりなのに、人間は大人になると どうして子供の気持ちから遠く離れてしまうのでしょう。
二十歳までは、間違いなく 子は親の責任です。
そのあとが、問題なのです。
三つ子の魂は、いくつになっても消し去ることはできません。それは仕方ないことです。
自分の出自に目をつぶるのではなく、姜尚中がベストセラー 「悩む力」のなかで語りかけているように、中途半端にしないで、まじめに悩みぬく、そこに、その人なりの何らかの回答がある、そう信じて生き抜くことです。
いまから10年ほど前、インドであった国際児童図書評議会でのビデオ講演で、美智子皇后が読み上げられた童話が、忘れられません。
新美南吉の 『でんでんむしのかなしみ』という童話です。
400字たらずの短い童話ですが、この質問者の彼女に捧げたい思いです。
背中の殻の中にいっぱい詰まっている悲しみに押しつぶされそうになっていたでんでんむしは、あるとき こう気が付くのです。
「悲しみは、誰でも持っているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしのかなしみを 、こらえていかなきゃならない。」
新聞の片隅に載った ひとりの女子学生の投稿に、自分の若き日々をダブらせてしまって、こんな文章になってしまいました。
|
|