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鑑真和上像

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花田清輝という 文芸評論家がいました。
35年前に 亡くなっています。
学生の頃、吉本隆明と並んで 前衛的論争を好む学生の間でよく話題にのぼった人物です。

わたしは、彼の書いた ちゃんとした書物を読んだことはありませんが、一件だけ 引っかかる文章がありました。
1960年に刊行された 「日本の彫刻」(美術出版社刊) のなかの、鑑真和上像についてのエッセイです。



わたしもまた、サラヴァンのように、しばしば、聖者について夢想しないわけではない。
これは、わたしが乱世に生き、波たちさわぐ俗悪野卑なわたしの情念に、絶えず悩まされているためであろう。
それかあらぬか、魂そのものが、肉体からぬけだして、悠々と、瞑目端座しているような 鑑真像をみると、おそらく聖者とは、こういうものなのであろうと、一応、わたしといえども感動しないわけにはいかないが・・・
しかし、率直にいうと、どうもその感動は、ながつづきしない。
いったい、肉体をもつわれわれ人間が、かくもあざやかに外部の世界をきりすてて、内部の世界へだけ閉じこもっていることができるものであろうか。
そう思うと、なんだか私には、この肖像が、絵空事のような気がしてくるのだ。のみならず、---

のみならず、わたしの独断によれば、聖者とは、外部の世界から内部の世界へはいってゆき、ふたたび内部の世界から外部の世界へもどってゆくような存在なのだ。
世俗に超然として、ひとり弧高の心境を楽しんでいるような人物は、断じて聖者とは称しがたいのだ。
したがって、そういう観点に立ってみるならば、精神的な、あまりにも精神的なこの肖像は、必ずしもわたしの理想的人間像ではない。

むろん、わたしもまた、フェノロサ以来、高村孝太郎にいたるまで、多くの人々が、この肖像に、脱帽している事実を知らないわけではない。
素朴なレアリストの手になる生硬で忠実な肖像にたいして慊焉の情をいだいている人びとが、みごとな抽象力をもつ魂のレアリストによってつくられたこの象徴的作品に驚異の目をみはるのは、思うに当然なことであろう。
しかし、これらのレアリストは、わたしのいわゆる聖者と同様、内部の世界から外部の世界へ、ふたたび帰ってゆかなければならないのではなかろうか。



花田清輝の、読点を多用した ものごとを斜めから見るような 独特なこの文章に大きく影響を受けて、わたしは、写真でみる鑑真和上像に 彫刻としての価値以上のものを見出せませんでした。
でも、心の隅っこに この文章に反発するものがあって、一度はちゃんと 拝まなければならないと思っていました。

以前に 「天平の甍」と題した投稿文にも書いていますように、鑑真和上像には 40年以上前に2回拝顔しているはずなのですが、写真でみる像のイメージしか 残っていません。
去年の秋に 唐招堤寺を訪れたとき、6月5日・6日の開山忌のときだけ 拝観できることを知りました。
ことし再訪できたらいいなぁと考えていたところ、奈良国立博物館で 「鑑真和上展」が催されていることを知り、さっそく出かけていきました。

近鉄奈良駅に着いたのは 午後4時過ぎ、4時30分締め切り間際に入館して 閉館5時までの30分しかありません。
他にも観たい展示品がたくさんありましたが、急いで鑑真和上像へ進みました。

仏像は 本来の安置場所で見るのがいちばん、これが わたしの持論なのですが、おそらく薄暗いであろう御影堂で
和上像を拝顔していたら、こんな感動は受けなかったかもしれません。

博物館などで仏像を観るときには 合掌したことがほとんどない 信仰心の薄いわたしですが、この鑑真和上像の前では 思わず両手を合せ こうべを垂れました。

ひとり弧高の心境を楽しんでいる? とんでもない
見えぬ目で、御前に立つ者の心を ちゃんとつかんでいらっしゃる。
内部の世界とか外部の世界とか、そんな垣根など このお姿のどこを指していうのでしょう。
ただ見ているだけで 心が満たされる、そのとおりです。

この像の作者の 鑑真和上に対する 限りなく重い尊敬と 計り知れない深い愛情を、わたしは、はっきりと しっかりと 感じることができました。

ずっと引っかかっていた 花田清輝のエッセイに、やっと決着がついた思いです。