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神護寺薬師如来立像

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「 抑(そもそも)高尾は、山うづたかくして鷲峯山(じゅぶせん)の梢を表(ひょう)し、谷閑(しづか)にして商山洞(しょうざんとう)の苔をし(敷)けり。
巌泉(がんぜん)咽(むせ)んで布をひき、嶺猿(れいえん)叫んで枝にあそぶ。
人里とを(遠)うして囂塵(きょうじん)なし。咫尺(しせき)好(こうな)うして信心のみあり。」


『平家物語』 の文覚・勧進帳の場面で語られる、京都・高尾の名描写である。

4月下旬にしては 気温6℃の寒雨のなか、ひと気の少ない高尾・神護寺を訪ねた。
目的は、薬師如来像。


高尾の谷は、深い。
国道162号線から清滝川の谷底へ下りて、また 国道とほぼ同じ高さの神護寺まで、ちょっとした健脚向きの山のぼりだ。
山門を高く遠望する石段は 雨に濡れて黒ずみ、新緑をますます鮮やかに彩っている。
足元が滑りやすく、緑に気を奪われて、手が思わず手摺りを探してしまう。

山門を潜ると、山中とは思えない平地がひらける。
緑が、目に染みるほどに若々しい。
通年紅葉のもみじが ところどころに点在し、萌える若葉の色調を際立たせている。
傘の布地を透けて洩れかかる若葉色をいっぱいに浴びながら、金堂へ向かった。

金堂への幅広い石段 これを登って振り返る風景、五大堂と毘沙門堂の伸びやかな屋根が 眼下に望まれる この風景に、わたしは、ここを訪れるたびに、繰り返し 既視感に捕らわれるのだ。
初めて見る風景ではないのだから 既視感という表現はおかしいのだが、なんだろう、この懐かしさは 既視感としか表現できない。

神護寺薬師如来像は、かって わたしに、ひとつの転機となる決断を下してくれた。
高校二年の冬、なぜ神護寺だったのか 覚えていない。
ひとり ふわふわと 高尾山中を訪れ、黒漆の厨子のなかに直立する この薬師如来像を見上げて、ギクッとした感覚だけは、鮮明に覚えている。
たかが仏像なのに、むらむらと反抗心が湧いた。
くそっ 負けるもんか、そんな奮い立ちようだった。


好きな仏像は、たくさんある。
しかし、この薬師像には そういう穏やかな畏敬の親しみとは異質の、 そう、 痛いところをなじられて 挑みかかった 親父の 憎らしげな睨みづらみたいな、苦々しい親近感を感じずにはいられない。

以前のように、間近から見上げることが叶わなくなった薬師如来立像は、距離をおいて 照明に照らされ浮かび、あの凄みがはっきりと感じられなくなっていた。

でも、この像の前では、この歳になっても まだまだ、はなっ垂れ小僧なのである。