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エドワード・ホッパーの憂鬱

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アメリカを代表する画家、エドワード・ホッパーの作品に、≪日曜日の早朝≫(1930年)という題名の絵がある。
ニューヨークの7番街を描いて、休息日の早朝に漂うけだるい雰囲気を、観るものにじわじわ感じさせる作品だ。
ひと気の無い街に、これから始まる人々の活動を予告させるような活気はなく、かといって ゴーストタウンのような不気味さは まったく感じない。
もちろん、休息日の癒しなど 微塵もない。
見捨てられたような淋しさ、そして、ただただ けだるいのである。

ルノワールに代表される印象派の絵には、ほのぼのとした温かみを感じる人が多い。
わたしも、ゴッホの絵などには 心惹かれるが、見たそのときに あぁいい絵だなぁと感心して、後は知らん顔でいられる程度の、残像である。

盗難で話題になった、エドヴァルト・ムンクの≪叫び≫(1893年)は、決して好ましい絵ではないが、受けた印象を いつまでも引きずってしまう。
エドワード・ホッパーの≪日曜日の早朝≫も、いつまでも引きずるという点では、ムンクの≪叫び≫に等しいか、あるいは それ以上である。
ムンクの≪叫び≫が 何か訴えるものを強烈に感じるのに対して、ホッパーの≪日曜日の早朝≫には 主張らしきものは無く、醸しだされるのは 諦めである。


もう一枚、ホッパーの絵を とりあげたい。
≪ニューヨークの映画館≫(1939年)。
画面左半分は スクリーンの上にチカチカと映る映画と それに見入る人びと、右半分に おそらくこの映画を何べんも観飽きて もの思いに耽るしか場が持たない案内嬢が エントランススペースの壁灯の下に立っている。
左半分に 映画館という場で暗示する見せ掛けの現実、右半分に その見せ掛けの現実から疎外された これも空虚な現実。
この絵を見た瞬間から、わたしは いわれのない不安感に駆られてしまった。

ホッパーが主に描いたのは、20世紀後半を象徴する 大都会・ニューヨークだ。
歴史に彩られた華やかさの影に漂う 『パリの憂鬱』とは まったく異質の、大恐慌時代から第2次世界大戦に至る 金持ちと貧しい労働者が醸す 『ニューヨークの憂鬱』を、ホッパーは、独特の “省略と暗示” の手法を使って表現した。
彼の作品が、俗な “時代風刺”に留まらず、80年の時を越えて わたしたちの心をとらえるのは、彼の生きた時代の人間そのものに深く関わって、「人間の気持ちの普遍的真実」を 真摯に描ききっているからだろう。

ホッパーの描く 「憂鬱」 は、まさに、現代の憂鬱そのものである。