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円空のほとけ

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30年ほど前のある時期、岐阜県大垣市出身の同業者K氏と べったり一緒に仕事をしたことがあった。
2歳年下の彼は 創造力と実行力に長け、私に欠けているすべてのものを持ち合わせていた(と思い込んでいた)ので、必要以上の信頼を寄せたために 仕事上でかなり痛い目を負わされた。
そんな曰くつきながら、思い出の中に 今でもK氏の魅力に負けている自分がいる。

その彼と名神高速を走って長良川にかかるころ、彼が熱を帯びて 決まって語る話があった。
俺のひいじいさんの話なんだが と前置きして、こう語った。

濃尾平野は 木曽川や長良川の恩恵を受けて肥沃な土地柄ながら、この川がいったん暴れだすと 人間のわざではとうしようもない災いをもたらす。
尾張の殿様は偉い方だから、木曽川も長良川も東側の土手を高くして 洪水がお城の方へ流れ込まないようにしてある。
ある大雨のとき その東側の堤も危なくなって、西側の堤を人為的に決壊した。
ひいじいさんの三番目の弟は、この洪水で溺死した。
大垣、羽島、安八の地域には、こんな話がいやというほど残っている。

K氏とは もう二度と会うこともあるまいが、もうちょっと違った形で 出会いたかった人物ではある。


さて、円空のほとけについて、語りたい。
学生時代の一時期 わたしは、一休さんの書と、円空さんのほとけに、魅せられていた。
一休さんは またの機会として、円空さんのことを急に語りたくなったのは、5月26日のNHKハイビジョン“プレミアム8”で放映されていた『円空、異形の仏12万体の願い』という番組を たまたまみて、円空のほとけを探し歩いた頃が 無性に懐かしくなったからだ。

円空上人は、江戸時代のはじめ、美濃国竹が鼻というところ、現在の岐阜県羽島市上中町に生まれている。
ちょうど 木曽川と長良川に挟まれた、農業のほかに生きる道のなかった、しかも 常に水の災いにさらされた地域だ。
父無し子であったが 母親にかわいがられ、7歳のとき その母を洪水で無くしてしまう。
あの番組の案内役 俳優の滝田栄が語っていたように、円空の生涯で この母への思いがどれほど重かったか、いやただ その思いひと筋だったのであろう。
20歳はじめのころのわたしは、ただ鉈彫りの魅力だけで 円空のほとけを追っていたが、この年齢になって あの番組をみて 初めて気づく、大きな共鳴である。

円空は、尾張の殿様を憎んだであろう。
だが 彼は、荒れ狂う川を鎮める竜神に ひたすら祈る道を選んだ。
自分と同じような みなしごがでませんようにと、竜神に祈りつづけるのである。
その祈りを木霊に込めて 非彫刻的な鉈彫り円空仏として、貧しい農民たちを布教していくのである。

1663年、北海道洞爺湖の南にそびえる有珠山が大噴火した。
当時のことだから、そのニュースが美濃の遊行僧 円空の耳に届くには、かなりの日数を要したはずだ。
1665年、33歳の円空は 遠く北海道に渡る。
渡らずにはいられない心境だったのであろう。
洞爺湖の中島にある観音堂に、円空仏としては初期の 観音像が祀られている。
まだ拝したことがない、是非一度 拝してみたい円空のほとけの ひとつである。
北海道の布教範囲は 道南に限られているが、ニセコの西 日本海に面した寿都(すつ)にまで遍歴し、ここにも円空のほとけ(観音像)を残している。
当時 まだ未開の地であった北海道に、仏教の心を布教して歩いた円空の功績は、計り知れない。

円空の遍歴の地は、じつに広い。

北海道を去った円空は、その後、青森県下北半島を尋ねている。
恐山にある円通寺という寺に 円空の観音像が祀られているのだが、この像のお姿は まことに神々しい。
円空仏後期の荒々しい彫りとは対照的に、浅くやさしく彫り込まれている。
母を思わすそのお顔は、円空の母への思慕が ひしひしと伝わってくる。

秋田県男鹿半島にも、円空の足跡が見られる。
男鹿半島の西南端の門前五社堂に、等身大の十一面観音像が祀られている。
にんまりと微笑む このお姿も、まちがいなく 円空のほとけである。

志摩半島は、円空が愛した地だ。
志摩の漁民たちと生活をともにした 円空40歳台前半の2年間は、円空の生涯で もっとも充実していた日々であったろう。
賢島に近い阿児町立神の薬師堂につたわる「大般若経」は、円空の指導で、写経の古本をもとに 巻経から折経に改められた。
折経を 勧進帳の如く パラパラと左から右へ流すことによって、長々とした大般若経を 全巻読み通すのと同じ効用がある、としたのである。
漁の仕事で忙しい漁師や海女にとって、これは 大いなる救いであったに違いない。
同じく立神の少林寺にも、また、志摩半島最南端の片田の地にも、同じような折経の大般若経が残されている。

濃尾平野へ戻った円空は、以後 尾張・美濃・飛騨地方をめぐっている。
飛騨での足跡は 実に多い。
円空は 飛騨一円の自然と人々を愛し、正確な数がわからないほど多数のほとけを 木霊から彫り出し、それらを飛騨の民衆に 分け隔てなく与えた。
いまでも この地方の村々には、円空のほとけを持ち回り地蔵として ひと月ごとに家々をめぐる風習が残っており、人びとの心のよりどころとなっている。

1689年には 近江との境 伊吹山に籠もり、同じ年に 東は下野(しもつけ)の国 日光を遍歴し、上野(こうづけ、今の群馬県)から武蔵・相模・駿河、西は肥前の国まで 脚を伸ばしている。
こうしたエネルギッシュな諸国遍歴を終えて 1695年、64歳で故郷の長良川畔で入滅するまで、「木っ端さま」と呼ばれている小さな仏像を含め、なんと 12万体もの仏像を彫っていくのである。

若い頃のわたしは、芸術家・円空を追い求めていたように思う。
縄文の土器や土偶にみられる 怪異な造型を、円空仏に見出して 悦にいっていた。
魔術師・円空に 勝手な期待のヴェールをかぶせていたのである。

円空自身 彫刻というものに魅せられていたのは、事実であろう。
しかし それは、現代の人間彫刻家の造型意欲とは 根底で違う。
伴藁蹊の『近世畸人伝』に、円空が 大きな立木に梯子を掛けて 像を彫り付けている挿絵がでている。
自然を畏れると同時に敬う心から、円空は 木に魂を見いだし、それを彫リ起こすことで仏像の形を与え、そのほとけの姿を通して 民衆に安寧と祈りを施していった。
円空においては、仏像の製作と伝道の精神が 完全に一致していたのである。

岐阜県関市洞戸にある高賀神社に、円空最後のほとけが安置されている。
2mを越す細長い十一面観音像を中心に、向かって右が 善女竜王像、左が善財童子像の三体仏。
番組『円空、異形の仏12万体の願い』では、これら三体の仏像が 同じ一本の大きな丸太から作られたことを教えてくれた。
十一面観音像を彫りとった残りの木から、円空の母の姿である善女竜王像と 円空自身の姿である善財童子像を 彫り出しているのだ。
映像では、これら三体の仏像を もとの大きな丸太として、抱き合わせて見せた。
わたしは、思わず嗚咽してしまった。
円空さんのほんとうの願いが、やっと判ったのである。
円空さんは、母とともに 観音さまに抱かれて、やっと安寧を得たのだ。

1695年、行脚するに耐える体力の限界を悟った円空は、長良川のほとりの弥勒寺で 断食に入った。
死をまじかに感じ取った円空は、弟子円長に 生きたまま長良川畔に埋めるよう指示して、細い藁管を銜えて座棺に入る。
幼くして母を奪われた長良川のほとりなら、いつまでも母といっしょにいられるとの思いからであったろう。
円空 64歳、入滅。

この世でやるべきことをすべてし終えて、そのとき まだ歩く体力と そして わずかな金銭的余裕があったなら、わたしは もう一度 円空のほとけを巡りたい。
いま そう、強く思っている。