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一休さんの書

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父母の住んでいた家の整理をしていたら こんなものが出てきたよと、先日 姉が、ナイロン袋にきちんと仕舞われた 全紙大の額を渡してくれた。
額には、銀粉散らし深緑の色紙に 「奇峰」と書いた墨書が入っており、わたし名の朱印が押されていた。
母が、たいせつに残しておいてくれたらしい。
この 「奇峰」の書から どっと蘇ってきた記憶が、一休さんの書である。


京都の街からずっと南、京田辺市の薪(たきぎ)というところに、酬恩庵(しゅうおんなん)という禅寺がある。
通称、一休寺。
一休さんの墓がある、文字通り 一休さんの寺だ。
大徳寺の末寺とはいえ、まことに立派な構えの禅寺である。
元は、妙勝寺といった。

臨済宗の歴史みたいな話になるが、中国唐の時代 臨済義玄(りんざいぎげん)は、禅宗を興隆して 臨済宗を開いた。
禅宗には、その教えを末代に伝えるため、禅を極めた者に法を嗣(つ)ぐ “印可”という制度がある。
ちなみに 臨済義玄は、禅宗の祖・菩提達麿から数えて 11世に当る。

宋の時代に、臨済義玄から数えて16世の 虚堂智愚(きどうちぐ)という高僧が出た。
一休さんが 常々自分のことを 「虚堂七世孫」と称していたように、虚堂智愚は 一休さんの憧憬の人であった。
その虚堂智愚に教えを請うため、南浦紹明(なんぼじょうみょう 大応国師)という 日本の禅僧が 入宋した。

この大応国師が 虚堂智愚から印可されて帰朝し、南山城・薪の地に開いた禅の道場が、妙勝寺であった。
大徳寺開山の大燈国師こと宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は、大応国師の弟子に当る。


元弘の乱が、鎌倉幕府末期に起こる。
「太平記」の舞台、南北朝時代の始まりである。
妙勝寺は、この乱の戦火にかかり 消滅したも同然の姿となった。
大応国師から数えて6代の法孫に当る一休さんは、これを再興し、師恩に酬いるという意味で 『酬恩庵』と名づけた。

一休寺本堂(法堂)の右手に、鎌倉の禅寺の建物を髣髴とさせるような 小ぶりながら唐風ゆたかな 愛すべきお堂がある。
このお堂、開山堂(大応堂)の内部に、一休さんは、妙勝寺の再興時に 大応国師の木像を刻ませて これを安置している。
一休、63歳のときである。


前置きが 長々しくなったが、それも 酬恩庵という禅寺のすばらしさに 魅了されてのことである。

さて 一休さんの書について であるが、わたしが なぜ 一休さん、禅師・一休宗純の書に惹かれたか。
具体的に、大徳寺塔頭(たっちゅう)・真珠庵に伝わる、一休宗純筆の四言偈(げ)双幅の一行書 「諸悪莫作、衆善奉行」をみればわかる。
一見 稚拙であるが、筆力雄渾とは このような字を言うのではなかろうか。
その 押し迫る気魄と野性味溢れる鋭さは、逆とんぶっても 真似できる字ではない。

すべて書は その人の性格を現わすというが、それのみならず、書は その人の骨格も表わすものだと、一休さんの書と 一休さんの頂相(ちんそう、肖像画)を見比べて、この勘を深くした。
つまり、書を通して 一休さんという人間そのものに 強く惹かれた、ということなのである。


ところで、京都の物知りさんに言わせると、京都では戦前と言えば 応仁の乱以前を指すという。
古色蒼然もはなはだしいが、第二次世界大戦で大きな戦災に遭わなかった 京都ならではの話であろうし、当時の京都が 応仁の乱で受けた被害が、それだけ大きかったことを 物語ってもいる。
その 応仁の乱のとき、一休さんは74歳であった。


話は外れるが、元弘の乱から応仁の乱に至る 室町時代という中世日本は、ふたりの天皇と うつけな将軍様が統治する きわめて不安定な社会であり、暗黒時代のイメージが強いが、その反面 庶民の時代であり、特に京の都では 下から湧き上がるような活気溢れる時代でもあった。
日本のルネッサンスであったのだ。

いまのわれわれの生活の土台は、この時期にできたといって過言ではない。
それは、『わび』 『さび』といった 能や茶道などの芸の世界だけではなく、いわゆる 『日本的』日常生活に、である。
このことは、京都という土地に住んでいると 一倍 肌で感じられるのだ。


人は、時代によって作られる。
一休さんが室町時代に現れたということは、摂理の一端であった。

一休さんは、漫画やテレビを通じて 一気に子どもたちのアイドルになった。
それは、普通の人間には思いつかない “頓知”ゆえであるが、同時に 権力や組織を その頓知でやっつけるという 反権力的開放感を、頓知話しを聞く者に 与えてくれるからであろう。

だから 一休さんは、子どものみならず、現代日本人みんなのアイドルなのだ。
「さん」付けで呼ばれる所以である。

一休さんが 後小松天皇の落とし子だということは、ほぼ間違いないようだ。
高貴な血を享けながら 乱世の世に 賎しい民家で産声を上げなければならなかった宿命は、一休さんの人間形成の根幹をなす。
一休さんが自らを 『狂雲』と称したように、「狂」は 一休さんの生き方を象徴する。
それは、「絶望」のなかで生きていく智慧であった。


禅者は、世俗的価値を超越しなければならない。
しかし 一休さんは、禅体験において世俗的価値観を超越しつつも、世間に生きるためには 世間の価値を越えることはできなかった。
天皇の落胤であるという定めから逃げることができない。
悲運な母を見捨てられない。
乱世という歴史上にも稀な時代を避けて生きることはできない。

この 「絶望」に強く向かっていくには、「狂」になるしかない。
わたしは、一休さんの この人間臭に惹かれる。


昭和43年の秋、11月祭の催しに合わせて わたしたちが所属していたサークルも 部活発表をするべく、講義そっちのけで 各自の年間テーマの仕上げに没頭していた。

その年 わたしが選んだテーマは、“一休の書”であった。
檀家寺である長遠禅寺の大和尚・藤井宗允氏は、大徳寺・真珠庵で修行され 一休さんに造詣が深い。
亡母も、この大和尚を 10歳年下ながら、心から敬慕していた。

その いまもご健在の大和尚に、40年以上も前に 一休さんについてお話をうかがい、それをテープにとらしていただいた。
いまでは出典すら定かではないが、一休の書の代表として、もっとも気に入った 『峯』という字を スライドにした。
あまたある一休禅師の資料や書物を、手当たり次第 調べ上げた。

いよいよ研究発表の当日、11月23日 勤労感謝の日、あいにくの寒む雨で、会場の北部講堂は 足元がやたらと寒かった。
聴衆は、義理で来てくれた友人数名と サークル仲間のみ。
寒さと薄暗い照明と音量不足のオーディオと そして テーマ自体の陰気臭さで、その数名の聴衆すら、わたしの話なんぞ うわのそらだったに違いない。
こうして、わたしのはじめての “講義”は、散々に終わった。


その翌年の1月 大学正門はバリケード封鎖され、9月には時計台が全共闘に占拠されて、機動隊との乱闘騒ぎに巻き込まれていく。
紛争の騒がしさは、わたし自身の頭からも 一休さんをどこぞへ追いやってしまった。
その後、「奇峰」の額を目にするまで、一休さんの書をみていない。

「奇峰」は、一休禅師に寄せる わたしの畏敬の造語である。
一休の書をテーマに選んで 一休さんの 『峯』に惚れこんでから、『峯』という字を、一休さんに真似て なんどもなんども習字した。
似た感じには書けても、書いている人間に雲泥の差があるのだから、迫力がまったく違う。
「奇峰」と書いて、おしまいにした。
字そのものはともかく、一休さんを 「奇峰」とは うまく表現できたと、ひとりうれしがっていたのを、懐かしく思い出す。


母がたいせつに残しておいてくれた額から、忘れていた たいせつな思い出を、蘇らせることができた。
書棚の奥に眠っていた <一休の書>を取り出してきて、「諸悪莫作、衆善奉行」という字を いま、ゆっくりと眺めて、楽しんでいる。