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真夏のオリオン・余録

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前に勤めていた会社に、山崎平さんという わたしより9歳年長の上司がおられました。
わたしが その年限りで退社することを決意した その年の夏の人事異動で、わたしが所属する部署の長となられました。
人手不足の時代でしたから、退社をおもいとどまるよう いろんな方々からお声を掛けていただきました。

当時の父の会社の状態から、いま父の手伝いをしなければ 一生後悔するとの思いが、慰留していただく方々のご好意にまさったから、わたしの決心は変わりませんでした。

山崎さんは、強くは引き止められなかった。
ただ一回だけ、個人的に食事に誘っていただいたことがあります。

新居浜駅前通りをまっすぐ南下して 突き当たったところを右に曲がって 街中に出るのですが、その突き当たったところに 当時としてはまだ珍しかった焼肉店がありました。
その焼肉店で、遅くまで 二人で語り明かしたのです。
山崎さんは、会社に残れ!的なことは 一切おっしゃらずに、人生に関するような話を とつとつと語られた。

酒がすすんできたころ、彼は 美空ひばりの 「悲しい酒」を アカペラで歌われました。
お世辞にも上手とはいえませんでしたが、いまでも あの かすれた歌声が、わたしの耳の奥に残っています。

晩夏の星空が少し明るくなっていたから、5時は過ぎていたでしょうか。
タクシーで わたしが住んでいた長屋社宅まで送っていただき、別れぎわに「社員が幸せになれる会社にするんだぞ」と、わたしの肩を とんとんと二回たたかれた。

その後 半年のあいだ、わたしは山崎さんの下で 気まずい思いもせず働きましたが、仕事以外の会話は ありませんでした。

山崎平さんは 長く要職に就かれてのち、関連会社の社長を勤め上げられ、2005年11月1日 お亡くなりになったと聞きます。
享年69歳でした。

半年早く わたしが山崎さんの部下になっていたら、わたしのその後の人生は 大きく変わっていたかもしれません。


映画 「真夏のオリオン」をみたとき、潜水艦イ-77の艦長 倉本孝行と、かっての上司 山崎平さんが重なりました。
万事休す寸前に 航海長 中津弘が、姿勢を正して 艦長に言った言葉は、あのたった半年の間 いっしょに仕事させていただいた山崎平さんに向かって言いたかった思いとダブったのです。
「倉本艦長のもとで いまを迎えたことを、わたくしは誇りに思います」

人間、どんな上司のもとで働く嵌めになるか、それは 半分以上 運命としか言いようがありません。
だから 余計に、心から尊敬できる上司を持てたことは、たとえ短期間であっても、どんなに幸せなことか。


現在の日本を観るに、マスコミに現れるたぐいのリーダーの品位が、極端に落ちたと言わざるを得ません。
政治家や官僚ばかりではない。
日本を代表する民間大企業のトップに、かっての日本のリーダー達のような 尊敬に値する人物が、いかほどおられるのだろうか。
いまの日本の体たらくをもたらした責任は、民間のしかるべき大企業トップの資質に負うところ大なのです。


振り返って わたしたち市井の周りには、ほんとうに立派な方が たくさんおられます。
その方たちの 共通する資質は、「真夏のオリオン」の倉本艦長に通じている。
すなわち、人を敬う心。
どんな人に対しても、どんな状況においても、きちんと向き合い、理解しようと努め、決して見捨てたりはしない。

マザー・テレサは、栄養失調で首がぐにゃぐにゃで 腹ばかり膨れたがりがりの子供を抱きかかえて、「この子は神のお子です」とおっしゃった。

凡人のわたしは 到底そんな高みには至るはずもありませんが、倉本艦長役の玉木宏が パンフレットに書き記している言葉を読んで、こんな若者になら この日本を安心して託していいと思いました。

「・・・ですから演じる上では、必死にそこに追いつこうとしました。もちろん、なかなか簡単に追いつけるものではない。
けれども 追いつこうとイメージすることが、自分自身が変わる第一歩だと思っていました。
上に立つ人間には、どんな状況でも ブレてほしくありません。それは いまの時代でも変わらないことだと思います。
いま見ても、この人物像は すごく輝いて見える。
そういう気持ちを持つことが、日本が変わっていく第一歩だと思います。」


良きリーダーに恵まれるということが どんなにすばらしいことであるか、映画 「真夏のオリオン」 をみて、このことを 強く強く感じました。