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友 遠方より来る

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先日 松並壯君が、尋ねに来てくれました。
ほんとうに 久しぶりです。
彼は、自称“うんち博士”で、技術士(水道部門)の資格を持っています。
水の大切さ、下水道の重要性を正しく認識している、数少ないエンジニアです。
“口八丁手八丁”とは、彼のような人物を言うのでしょう。
行動的な松並君が訪ねて来てくれなかったら、彼とは もう会えなかったかも知れません。
手土産にいただいた大磯のせんべい、船橋屋織江謹製の『大いそ花吹雪』は、実に旨かった。
彼の話によると、かの吉田茂も大好物だったとか。


日本の現状を憂え 人生の愉快を説き 専門の上下水道に熱弁をふるって、過ぎる時を惜しんだ松並君が、 「これが今回の訪問の第一目的」と言って渡してくれた論文、『昭和戦争の反省~21世紀の日本国の健全化のために~』を精読しました。

この論文は、大正14年生まれの 故・中川義徳氏の遺稿文で、「水道界 平成16年3月号」に記載されたものです。
中川さんのことは、松並君から その“真の技術者”たる人柄を 飛び飛びに聞き知っていましたが、このたび 氏の経歴や業績を詳しく知って、こういう技術者がおられたからこそ 戦後日本の驚異的な技術立国への変身ができたのだと、つくづく思ったものです。
特に、首都・東京の 耐震を重視した上下水道は、中川義徳氏の業績に負うところが大きいことを知って、改めて 誇らしく感じます。

技術者・中川義徳氏が、彼が生きた昭和の歴史で最も反省すべき事件、昭和戦争(彼は昭和6年の満州事変から昭和20年の敗戦までを 「昭和戦争」と呼んでいます)に対して、ひとりの良識ある民間人として抱いた 真剣な思いが、この遺稿を読むわたしに、ていねいな真心をもって伝わってきました。


ところで、田母神・元航空幕僚長の論文が話題になり、マスコミが一時期 彼を英雄視するかのごとき扱いをしたとき、わたしは 心底 腹立たしく感じました。
田母神氏のような考え方があっても、それは構いません。
田母神氏がマスコミへ露出する度合が増すにつれ、彼の主張が正しいような錯覚を 聴衆に抱かせてしまったことが、腹立たしいのです。
わたしのような浅学な者からみても、田母神氏の論文は、昭和戦争を経験していないことから生じる実感の無さに加え、昭和戦争を十分に照査していないことが歴然とわかります。

一方、中川義徳氏の遺稿論文を読むと、長兄がソロモン沖海戦で戦死され、また兄上お二人が南方戦線で九死に一生を得て還ってこられたというご家庭の事情、1997年にガナルカナル島で執り行われた戦没者55年忌慰霊式に参加した体験などから、昭和戦争を にじみ出る思いで照査された痕跡が、ひしひしと伝わってきます。
感情だけに流されるのではなく、冷静な技術者の目で 莫大な資料を照査されてのち、昭和戦争を猛省されているのです。

この論文で 中川氏は、日本の将来を左右する重要な節目節目で そのときどきの日本のリーダーの人間的器の大小が その後の日本の命運を分けることを、強調されています。
時を追って、張作霖爆殺事件、満州事変、五・一五事件、リース・ロスの中国幣制改革への対応、ニ・ニ六事件、蘆溝橋事件、ドイツの日中和平調停への対応、ノモンハン事件、日独伊三国同盟と日米交渉、そして太平洋戦争と、それぞれの節目で採った当時の日本のリーダー達の誤りが、沖縄の悲劇、本土主要都市への無差別空襲、そして広島・長崎への原爆投下へと導かれ、ポツダム宣言受諾、全面無条件降伏での終戦へと至る歩みを、膨大な資料の照査と 彼自身の悲痛な体験に基づいて、ていねいに 判り易く、語っているのです。

わたしは、中学校でも 高校でも、歴史の授業で この「昭和戦争」を詳しく教わった記憶がありません。
高校では 大学受験との絡みで、明治維新くらいまで来ると 講座時間切れとなり、あとは各自で学習するように・・・でした。
歴史の先生としては、「昭和戦争」を教えたくても、思想的な問題が絡む近代の歴史授業は 避けざるを得なかったのかも知れません。
歴史でいちばん重要なのは、近代史なのに・・・


少し話は逸れますが、佐藤栄作氏がノーベル平和賞を受賞したとき、わたしは その受賞理由に合点がいきませんでした。
時がときなら、昭和天皇にこそ ノーベル平和賞をもらってもらうべきだ と、思っていました。
そんな事態になっても おそらく、昭和天皇は 受賞をお断りになられたことでしょうが・・・


中川義徳氏は この論文の中で、節目節目の事件に際して 昭和天皇が いかに平和への道へ軌道修正しようと努力されたかを、決して右翼的尊王感情からではなく、昭和天皇を 平和をこよなく愛し願うひとりの人間として、正当に評価しています。

例を挙げます。

< ニ・ニ六事件に当って >
『・・・天皇は反乱の報を受けたときから、一貫してこの動きに反対し、重臣を殺した反乱軍の鎮圧を強く命じた。この天皇の強い命令にもかかわらず、陸軍幹部は鎮圧をためらったので、天皇は「お前らがやれないのなら、自分が近衛師団をひきいて鎮圧する」といわれたので、ようやく28日午前6時に撤兵を命ずる奉勅命令が出された。「今からでも遅くないから、原隊に帰れ・・・」の放送が行われると、下士官、兵は たちまち帰順し、日本をゆるがした大事件も あっけなく終わった。
この事件の処理にあたって、天皇のとられた筋を通した勇気ある行動と信念には ほんとうに頭が下がる思いで、この聖断がなければ、日本はその後 完全に軍のいいなりになる無法国家になってしまったことは確実である。』

< もし、8月15日の終戦が遅れたら >
『・・・昭和天皇の聖断により、8月15日に終戦となったが、これがもし遅れたらどうなったか。まず第一に、すでにソ連軍は満州に大挙侵入していたが、南樺太から北海道へ上陸し、さらに東北地方北部に上陸したにちがいない。この段階では、日本本土の防御能力はきわめて低下していたので、日本軍がこれを撃退することは不可能であったろう。
そうなれば、ソ連占領地域には、ソ連影響下の共産主義政権(北日本人民共和国?)ができ、ちょうど 北朝鮮と同じような国となったに相違ない。
そして、必ずや朝鮮動乱ならぬ日本人どうし骨肉相争う日本動乱が起きていたに違いない。これは、昭和戦争以上の国民への被害と不幸をもたらしたであろう。これを避け得たのは、昭和天皇の身を捨てての決断によるところが大きい。
昭和天皇は、日本が連合軍に降伏すれば、自分の生命はないと覚悟されてのことだったに違いない。昭和天皇に 心から感謝の念を新たにする次第である。』

< 東京裁判 >
『・・・なお、天皇を裁判にかけるべきだとの意見を、ウェップ裁判長は持っていたが、天皇は元来 平和主義者であり、国民の尊敬の念厚く、その天皇を裁判にかけることは、日本国民の反抗を招き、占領統治を困難にするというアメリカ政府および、天皇の人柄に感激したマッカーサーの配慮から、天皇は訴追されなかった。』

中川氏は、この論文を次のような言葉で、締めくくっています。

『・・・昭和戦争を振り返って反省するに いちばん重大な点は、一度起こした失敗を 次の指導者が 反省して勇気をもって改めようとせず、その責任をとらずに次の代に後送りしていった無責任体質が、遂に 勝てる見込みのほとんどない日米戦争にまで導いてしまったことである。・・・日露戦争の勝利以降、国民全体に気がゆるみ、指導者層も緊張感を失って、国全体より、自分の属するグループの利害を先に考えるようになった。・・・国全体のことを総合的、長期的立場で考える指導者不在のまま進行したのが、昭和戦争であった。』

この指摘は、現在の日本の指導者たちの体たらくに あまりにも酷似しているようで、恐ろしいくらいです。


松並壯君は、ほんとうにいい置き土産をくれました。
一期一会、再会あらば、僥倖としましょう。