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反逆の時を生きて

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「反逆の時を生きて」
これは、朝日新聞夕刊記事 “ニッポン人脈記”の、いま掲載されているシリーズの題名である。
70年安保の学園紛争前後に 青春を駆け抜けた人々の、鎮魂記とも受け取れる。
団塊の世代が 第一線を退き、過去を振り返る時期にきた、ということか。
その第一回に記載されたのが、高野悦子 『二十歳の原点』であった。

「会長の興味ありそうな記事が載ってますよ」と、当社ホームページを管理してくれている水野さんが渡してくれた夕刊の、このシリーズ第一回の記事を一目見て、遠い遠い魂の叫びが どっと蘇った。


当社のすぐ東の南北の通りを、“御前通り”という。
北野天満宮の御前を通る道だから、御前通りである。
この通りを少し北へ上がると、JR山陰本線(嵯峨野線)に交差する。
いまは高架になっているが、以前は踏切を越えて 丸太町通りへ出た。

昭和44年6月24日の未明、この踏切近くに下宿していた高野悦子さんは、単線のレール上を 西に向かって歩いていた。
御前通りのもうひとつ西の通り “天神通り”の踏切から20mほど進んだところで、上り貨物列車を避けることもなく、自殺。
二十歳になったばかりだった。
その数日前 郷里の栃木県西那須から上京した母に買ってもらった茶色のワンピースを身につけ、同色の これも一緒に買ってもらった靴を履いて・・・


革命的変革時には、ジャンヌ・ダルクが現れる。
周囲が それを求めるからだ。
女だてらに という偏見も、その あと押しをする。

60年安保闘争のときは、全学連の国会突入デモ時 警官隊と衝突して圧死した、樺美智子さんだった。
つい先だってのイラン騒動でも、デモで死亡した ネダさんという若いきれいな女性が、<イランのジャンヌ・ダルク>として ネットを通じて全世界に知らされた。

だが 高野悦子さんの場合、学園紛争中には その存在はほとんど知られることはなく、紛争が終焉しかかった昭和46年に その手記が新潮社より出版されて 初めて、人口に上ることになる。


『二十歳の原点』を手にしたのは、勤務地の愛媛県新居浜であった。
当時 新居浜で一番大きな本屋、登道の “はるや書店”の店頭書棚で、それを見つけたのである。
社会人になって 一年が経っていた。

この手記に自分を語っている人物は、男女の差、4歳の年齢差を越えて、わたし自身の生き写しのようであった。
たいへん不謹慎なもの言いだが、彼女の死は わたしの身代わりのような、思いあがった錯覚にとらわれたものである。


「反逆の時を生きて」の記事を読んだその翌日、物置の奥を探し回ったが、あの単行本 『二十歳の原点』は見つからなかった。
失われた記憶を取り戻したい!みたいな探し方・・・
文庫本なら手に入ることを ネットで知り、新たに買った 新潮文庫 『二十歳の原点』を むさぼるように読み返す。


高野悦子さんがよく利用した <シアンクレール>という音楽喫茶店は、荒神橋から河原町通りへ出た交差点、荒神口の北東角にあった。
いまは、もうない。
立命館の学生だった彼女は、立命館がいまの衣笠学舎に移転する前の 広小路学舎に通っていたのであろうから、その近くのシアンクレールを よく利用していたのであろう。

荒神橋は、サークルの先輩から 「ここは昔、京大生と警官隊が衝突して、欄干が崩れて、大勢の負傷者をだしたんだ」と聞かされていた。
いわゆる “赤狩り荒神橋事件”である。
そんな事件に興味もあってか わたしも、荒神口のシアンクレールへは ときどき通ったものである。

昭和44年1月、京大正門がバリケード封鎖される直前に 非暴力の呼びかけビラを配ったわたしと二人の友人は、民青からも全共闘からも マークされる存在になっていた。
自分がしでかした行為の 思いがけない展開にビクついている自分に、失望していた。
ガンジーへの傾倒は、いったい何だったのか。
そんなに軽薄な信念だったのか、と・・・

研究室の仲間は 封鎖中も、構内から抜け出して(吉田神社との境界通路へは東の垣根を飛び越えて 案外かんたんに出入りすることができた)、百万遍の<進々堂>で よく集会をしていたが、わたしは稀にしか参加しなかった。
「君子 危きに近寄らず」と 「機を見てせざるは 勇なきなり」との間で 揺れに揺れていたわたしは、親しみのある荒神橋を越えて、シアンクレールで ひとり 夏目漱石全集を読みふけっていた。
現状から逃げていた。

シアンクレールは、二階が名曲喫茶になっていた。
ひょっとしたら、あの隅っこの席で 煙草をふかしながら朝日ジャーナルを読んでいた 子どもっぽい丸顔の女性は、高野悦子さんだったかもしれない。

他人と繋がっていたいくせに、自我意識が強すぎて うまく人の輪に入っていけない。
高野悦子さんも、同じだったろう。
とくに 異性との付き合い方が、興味津々なのに、どうしていいか わからない。
そんな一番多感な時期に 一番狂おしい事件、学園紛争に行き当たった彼女のもがきは、わたしにはよく理解できる。
わたしは いい加減なところがあるが、彼女は 純粋だったのだ。

彼女がよく立ち読みした 烏丸丸太町のアオキ書店、嵐山に下宿していた頃 よく通った喫茶店<松尾>、よくサイクリングに出かけた 広沢の池、喫茶店<白夜>、スナック<ろくよう>・・・
すべて わたしも、慣れ親しんだスポットである。

彼女が読みふけった書物の幾冊かは、当時のわたしの愛読書でもあった。
怖いくらい、似ている。


60年安保は、中学二年生だったわたしには 実感のない現代史のひとこまである。
70年学園紛争は、生々しい記憶の中にある 人生の一部分である。

あの時、誰彼を問わず、みんな 被害者であると同時に、みんな加害者であった。
マイクからがなりたてていた 民青のウラナリ顔の青年も、タオルで眼しか見せなかった ひょろ長い中核の男も、防弾盾の隙間から敵愾心丸出しにわたしを睨みつけた 同年輩の機動隊員も、成り行きで構内に立てこもりながら デモと機動隊の殺気立った衝突をおずおずと傍観していた ノンポリの学生も、みんな被害者だったし、同時にみんな 加害者でもあったのだ。
みんな 孤独で、誰かと繋がっていたかったのだ。

60年安保を 政治闘争と呼ぶのなら、70年学園紛争は 自己闘争ではなかったか。
社会への扉の入口に立った若者の、反逆すべきはずの社会に 同化して生きねばならない自己に対する、震えながらの闘争ではなかったか。

学園紛争が頂点に達した昭和44年、わたしは すでに社会人への助走を始めていた。
だから 紛争とは、半分以上 逃げながら、距離を置くことができた。
わたしより3学年下の高野悦子さんは、まじめだったから なおさら、紛争の渦中に放り出されてしまった。


『二十歳の原点』を読み通して 目が冴えて、眠れぬまま さだまさしの 『道化師(ピエロ)のソネット』を聴いている。
もし あのとき、高野悦子が この 『道化師のソネット』を聴いていたなら、そして 太宰治のあんな小説を読まなかったなら、貨物列車に飛び込むなど しなかったのでは・・・


高野悦子さんは 二十歳の誕生日 昭和44年1月2日の日記に、独りであること、未熟であること、これが二十歳の原点である、と書いている。
それを達観していた彼女を その半年後の自殺にまで追い込んだもの、それは いったい何だったのか。
それは、あの時代の風だったと、わたしは いまにしてそう思う。