YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
工場から工房へ

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先日、高台寺・和久傳で食事をする機会を得た。
高台寺・和久傳は、一度は訪ねてみたい料亭ではあったが、期待以上の満足のひとときであった。

帰りぎわ、「ご婦人のお連れ様にのみ お渡ししております。お受け取り下さいませ」と、おかみさんが家内に手渡した袋の中に、ちりめん山椒と一緒に 変形A5版の冊子 『桑兪(そうゆ)』が入っていた。
黄色のしゃれた装表が 和久傳の趣味の良さを語っているようで、帰宅して数時間 これもまた気の利いた内容のエッセイに引き込まれた。
著名な10数名の書き手が 垢ぬけた文体で綴る短編の中に、歌舞伎役者・市川亀治郎の 『修行僧』と題する随筆が、さっき訪ねた和久傳の表情を うまくとらえていた。

それは、焼き物を供する若い調理人を 修行僧に見立てたもので、その一部を紹介してみたい。


「失礼します」と畳に手をつき、礼儀正しく深々とお辞儀をして焼き物の支度に取り掛かる若い衆。
無駄口を利かず、かといって無愛想ということでは決してなく、こちらから言葉を投げかければ、打てば響くように返ってくる。現代に於いては、もはや絶滅してしまった在りし日の日本の若者の姿が ここにある。
炭の爆ぜる音が心地よく響く静寂のあいだに身を置き、初々しさと謙虚を合わせ持つ若い衆が、思わずこちらがほほ笑んでしまうくらいの緊張感を伴って焼き物に取り組む光景を眺めながら 盃を傾ける。
僕にとって何ものにも代えがたい 至福のひとときである・・・
・・・和久傳で餐される料理の数々の、そのどれもがこの世ならざる美味しさを湛えているのは、そこで働く料理人をはじめ、すべての人たちの想いが真っ直ぐで、きれいだから。
どうかこの想いを人から人へと、比叡山の根本中堂に輝く、最澄以来一度も消されることがない不滅の法灯のごとく、大切に守り伝えてほしい。
百年後の人たちも、僕らと同じ感動を味わえるように。
このように願う僕の目には、焼き物をする若い衆が、さながら黙々と誦経に励む修行僧に見えるのである。



ところで 最近、<工房>という名を冠するお店が増えた。
工房と聞くと、そこには手作りの温かみがにじむ。
<工場>と対極に位置する この命名は、そのあるじの想いが込められている。

大量生産、労働者、規格品、効率、等々のイメージを醸す<工場>に対して、小ロット、注文生産、まごころ、こだわり、楽しさ、等々のイメージを湧かす<工房>は、無機質の物に溢れた現代社会において、ひとつの生きざまを表わしている。

イギリス産業革命以後 ものづくりは、マイスターからマニュファクチュアへと変遷し、アメリカのプラグマティズムを資本家の搾取的独善解釈で生まれた 効率第一主義へと変貌する。
一概に効率主義を悪とは言えないが、何のためのものづくりか を考えたとき、主人公であるはずの人間が不在の効率主義に、人間を “人材”と見做す冷徹さが潜んでいることに気づく。
ものづくりの場としての<工場>は、その象徴なのだろう。

バブルがはじけ マネー資本主義がその脆さを曝して、ものづくりをなりわいとするわれわれは やっと、ものづくりの原点であるマイスターに回帰する。

作り手の想い、それだけでは面白くないし なりわいにはならない。
それを使ってくださる(食してくださる)人たちがあって はじめて、作り手が作ったものは 輝くのである。
生きてくるのである。
そして その結果として、なりわいが成り立つのである。

<工房>と称するものづくりの場が増えたのは、作り手が このことに気付き始めたからではなかろうか。


料理と われわれのようなものづくりを同底に置くのには 無理があるが、その本質に差異はなかろう。
高台寺・和久傳で、そのことを 深く思った。