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京田辺の大御堂観音さま

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昭和43年から44年にかけて、京都新聞夕刊に 「心情」という連載記事が 載ったことがある。
京都の学界や財界の著名人が、自分の好ましいと思う京都の風景や史跡を、写真と500字足らずの文章で紹介するシリーズであった。
その切抜き帳を 先日たまたま見つけ、興味をそそられて 目を通してみた。

その中に、当時 京都銀行頭取であった片岡久兵衛氏が投稿した 「心情」は、京田辺の普賢寺にある 大御堂観音寺本尊の 十一面観世音菩薩立像であった。
或る想い出が、どっと蘇ってきた。


昭和41年2月、教養部での学生生活最後の思い出に と、友人の鈴村繁樹君(故人)とふたりで、南山城を1週間かけて巡ったことがある。
鈴村繁樹君は 卒業後、東洋工業(いまのマツダ)に就職し、ロータリーエンジンの開発設計チームに所属し 猛烈に働き、二人の子供と若い奥さんを残して若死にした。
もっとも親しみを込めて付き合った、最も思いで深い友人である。

その、南山城の旅で最初に対面したのが、大御堂観音寺の十一面観音であった。
鈴村君は、この仏像に惚れ込んだ。
その惚れ込みようは、凄かった。
わたしも、それに釣られて 惚れ込んだ。
この観音像は、惚れ込むに値する、親しみ深い すばらしい姿態をしていらっしゃる。
天平時代でも最も燗熟した立像で、木芯乾漆、像高173cmの等身大。

この想い出に誘発されて、先日 京田辺普賢寺を訪ねた。
京奈和自動車道の田辺西インターを降りて、同志社の田辺キャンパスを通り、豊かな田畑を行き詰まると 普賢寺在に入り、なだらかな丘地帯陵となる。
このあたりは、第26代継体天皇の皇居、筒城宮(つづきのみや)のあった跡という。
まことにのんびりした 大らかな土地柄で、土地では普賢寺とか、あるいは観音寺とか言わず、大御堂の観音さまで通っている。
大和聖林寺の十一面観音菩薩像と、湖北高月(たかつき)にある渡岸寺の十一面さまと、この大御堂観音さまとが、日本三観音菩薩といわれている。


冒頭に紹介した 「心情」で 片岡久兵衛氏は、この像を つぎのように表現している。

『聖林寺の観音さんのボリュームと、渡岸寺の観音さんの細身で貴族的でちょっと近寄りがたい感じのするのとの中間をいく、親しみ深さと適度なボリューム、ことに衣紋(えもん)の開き具合からみて、いまにも台座から降りられ、衆生済度されるかのような 流動的な姿態が、われわれにぴったりと来て、うれしい感激である。』


普賢寺は、かっては 奈良の興福寺の別院として栄えたが、いまは往時を偲ぶ何物も残ってはいない。
唯一 この十一面観音さまが、千二百余年の間 世の変遷につつがなくいまし、往時の栄華を留め置くと同時に、その間の民の信仰と祈りを その麗容に託して、こんにちまで受け継がれている。

拝観を願うと、若い僧侶が 唯一の建物である観音堂に案内してくれて、お厨子を明けてくれる。
観音さまのすぐ足元で、そのお姿を拝顔できる。
これほどの国宝を こんなに間近で拝見してもいいのだろうかと こちらが気遣うほどに、すぐそこに対峙できるのである。
それだけでも 感激である。
その上、馥郁たる等身大の この容姿。

鈴村君が強烈に惚れ込んだわけが、40年を経ていま 眼前で証された。