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東寺の帝釈天像

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有馬稲子さん主演の 「胸より胸に」という映画を見たのは、物心ついて間もない頃だったと思う。
世の中にこんなに美しい人がいるのかと、上の姉からもらった有馬稲子さんのブロマイドに見とれていた時期があった。
この映画の内容は ほとんど忘れたが、就職して初めて歌った曲が この映画の中で歌われていた労働賛歌だったことに気づいたことだけは、鮮明に覚えている。

『しあわせはおいらのねがい、しごとはとってもくるしいが、ながれるあせにねがいをこめて、あかるいしゃかいをつくること・・・・・・・・・』


そのずっとのち、有馬稲子さんが 大学のサークルで話題になったことがある。
女優としての彼女ではなく、彼女が 東寺の帝釈天像をこよなく愛していることに寄せる、同感の思いからだった。

わたしは 当時、東寺の帝釈天像を見たことがなく、仏像鑑賞として 東寺境内に入ったことすらなかった。
幼い頃から 東寺は、祖母のお湯の場であり(東寺に “お湯”がどういう風に存在したのか いまだもって理解していない)、毎月21日の “弘法さん”の市としての認識しかなかった。

そういう認識だった東寺に 有馬稲子さんの愛する仏像があるという一点で、東寺というのは 凄いところと決めてかかった嫌いがある。
まことに 非学術的、世俗的な思いようである。
が、動機がどうであれ、東寺という仏閣が、東寺に祀られてある仏像が、日本の至高の誇りであることに 変わりはない。


この夏 奈良興福寺の阿修羅像が、東京や福岡で たいへんな人気を呼んだ。
わたしは これら二都市の博物館での阿修羅像を見ていないので、その優れた展示方法での阿修羅像の魅力を知らないが、興福寺の国宝館での展示方法が拙いのか、写真でみる阿修羅像に比して 興福寺国宝館での阿修羅像は、貧弱な印象を拭えない。
写真で惚れて 実物で落胆する仏像の、典型ではなかろうか。

阿修羅と闘争をくり返した帝釈天は 貴族の出の戦争の神だが、その代表的な像が 東寺講堂に安置された21体の仏像の中のひとつ、帝釈天像である。


東寺というところは、どちらかと言うと 京都的ではない。
京都人でも、東寺の塔は 道しるべ的に知っているが 寺内に入ったことのある人は少ない、と聞く。
南の町外れというロケーションのせいもあろうが、もったいない。

わたしは 今度あらためて、この寺を訪れた。
有馬稲子さんに導かれて拝した帝釈天像の 気格ある容姿に対する感動を、もう一度味わいたくて・・・


訪れた日は、長く続いた晴天のあとの どしゃ降りの雨だった。

九条通りに面した南大門の 広い五段の石段を上がると、南大門の太い柱と柱のあいだから、雄大な金堂が迫る。
裳階(もこし)付の 本瓦葺き入母屋造りで、和様、唐様、天竺様が入り混じって、なんとも味わい深い。
この金堂の 天井高い内部は、大虹梁を架した組入り天井の豪華なものである。

高貴な古さを感じさせる広い須弥檀には、十二神将に囲まれた台座に坐す薬師如来坐像と両脇侍の日光・月光菩薩像のみである。
この薬師三尊は 仏教美術的にはどうであれ、この神聖な 広く高い空間に置かれているだけで、もう ありがたい。

外の 激しいはずの雨の音すら、金堂内の静寂を 強調するものでしかない。

こんな 魅せられた空間が、世俗からほんのちょっと車で走らせた場所に存在することに 感謝せざるを得ない。


金堂を出て 東寺の広い寺域に立つと、侘び寂びの世界とは異質の、こせこせ感から程遠い 大きなスケールが迫ってくる。

少し 雨脚が、弱まったようだ。

北側に 講堂がある。
東側の入口から 入る。

広いはずの講堂内は、21体の大きな仏たちで埋め尽くされ、狭苦しくさえ感ずる。
羯磨曼荼羅(かつままんだら)の世界である。

まず飛び込んでくるのは、四天王立像のひとつ 持国天像。
この仏は すばらしい。
全身をひねりながらも、絶妙なバランスで すっくと立っている。
力強く、かつ 今にも須弥檀から飛び降りてくるような 躍動感に溢れている。

そのすぐ後ろに、三羽の神鳥に支えられた台座に ゆったりと坐す 梵天像。
三面、三眼、四臂の像容で、やや俯き加減の すこぶる切れ長の両眼、豊かな張りの両頬の面相は、怒り肩、鳩胸、くびれ胴とあいまって、高貴な異国の王様を髣髴とさせる。

ほんとうのところ これら細部は、なんどか 東から西へ進みまた戻って初めて気づくことであって、初めは 21体の諸仏群に圧倒されて、お堂内の南側を行きつ戻りつさせられた というのが、正直な表現である。

お目当ての帝釈天像は、西端におわした。

東端の梵天もそうだが、この帝釈天も 像高1メートルほどで、他の迫力ある仏像に比べれば 大きさ的には弱い。
しかし 仏像の完成度の高さでは、中央の仏像三群の如来部、菩薩部、明王部を圧倒している。
摩訶不思議な象に乗ったその姿、腰に置いた左手、足裏を見せた半跏の右足、象の背にどっかと掛けた左足、まるで 触れれば弾むごとくである。
胸前を飾る条帛の衣褶からは、その下に隠された逞しい肉体の鼓動が聞こえそうだ。

何よりも その面長のお顔。
深い思索に耽る切れ長の目、意志の強そうな怒り鼻、どのような誘惑にも口を割りそうにない唇、思わず触れてみたくなるような頬、どの部位も どの角度からも 非の打ちどころがない完成度だ。

仏に惚れるとは、こんな心持を言うのだろう。
有馬稲子さんが愛したわけが、改めて腑に落ちた。


わたしは ずいぶん長い間、講堂の中にいたように感じた。
なのに 講堂から出た瞬間、講堂の中にいた時間が あっという間のようでもあった。

東寺というところ、間違いなく 魅せられた空間である。