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インクラインの夢

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京都で どこが一番好きですか?と聞かれたら、あなたなら どこと答えますか?
わたしの知人は ほとんどが、清水寺あたり と答えます。

たしかに 清水寺あたりは、独特のムードがありますね。
わたしも 好きです。
でも 一番好きなところ と聞かれれば、わたしは 南禅寺水路閣から蹴上インクラインに至る遊歩道、と答えます。


ずっと以前、当時 京都市役所に勤めていた 山田正三さんという方が書かれた 「明治の川」という本を読んだことがあります。
明治百年を記念して、琵琶湖疏水工事を主題とした小説でした。
その本の表紙に描かれていた 南禅寺インクラインが、郷愁をもって思い出されます。
「明治の川」は、もう手元にありませんし、絶版になったようです。


その著者の山田さんが、昭和44年11月の月刊誌 「京都」(白川書院刊)に寄稿された文章が 残っています。
「南禅寺インクラインの再現を望む」と題した、京都の新しい観光地創出の提案書です。

先日の新聞で知ったのですが、梅小路公園に水族館建設の計画があるそうです。
なんと無粋な計画か と、腹が立ちました。
だから 余計、山田さんの提案書に惹かれたのです。


山田さんは、当時 インクラインの敷地を保存するでもなく 活用するでもないまま、日々荒廃していく様子を嘆いて、明治百年を契機に 施政者側の一市職員として、この貴重な文化遺産を 観光資源として利用し 保存したい、と考えられました。
彼の提案を支持する人々は、当時 かなりの数にのぼりましたが、この提案書は いまだに実現していません。


彼の提案書の要旨を、紹介しましょう。


【提案要旨】
南禅寺インクライン(傾斜鉄道)を戦前のように再現して、京都の新しい名所として欲しいのである。
傾斜鉄道に乗舟することによって、老人層には 過ぎし日の懐旧の念を、中年層には こよなき郷土愛を、青年層には理想を、幼少年層には 社会科の学習の楽しい教材を提供し、そして 皆んなが楽しくレジャーを満喫しながら、明治の進取の気鋭に燃えた精神を肌で吸収することを、願うものである。



山田さんは、具体的に かなり突っ込んだ提案をされていました。
その一部を、紹介します。


【区間および運転方法】
第三墜道(日ノ岡山トンネル)周辺の広大な広場を開放し、起点(発着駅)とする。
歴史的風土特別保存地区に指定されていることを考慮して、周囲を公園化し、蹴上舟溜りまでを 複線運転する。
発着駅には ケーブルカーのようなドラム機械室を設け、巻揚げ式とする。
通過時間は、約十分ないし十五分を要する。
乗舟制限は 十五人ないし二十人までとし、それに船頭とガイド嬢が隋乗する。
舟は 舟受の枠に載せて上下し、そのまま疏水舟溜りの水中で放流させる。
舟は そのまま疏水の流れにまかせて西下し、動物園の橋詰めに舟入りを設けるか、もしくは 平安神宮のくれない橋詰めに舟入りを設けるか、のいずれかとする。
動物園、美術館用地が舟入りに相応しく、いずれも市有地であり、船着場としては 格好の場所である。
舟は どちらかの船着場にて乗降を確認、動力をもって川上の蹴上舟溜りまで戻り、待機中の貨車にて第三墜道の発着駅に帰着する。
複線のピストン運転により 乗客を効率的に輸送するには、蹴上周辺の疏水幅は 疏水の流れの中では最大であり、十分にUターンも可能である。



疏水創始者は、大学を卒業したばかりの 田邉朔郎という青年技師でした。
疏水は、京都市民の飲み水の役割だけでなく、灌漑、水運、防火用水、そして水力発電といった 多岐にわたる役目を担ってきました。

そして なによりも疏水は、天皇が江戸へ行ってしまわれた 当時の沈んだ空気の京都を、チンチン電車が代表する 新しい活気ある街、近代技術の街に変貌する きっかけとなったのです。

技術者の端くれとして わたしは、疏水を 京都の大きな誇りに思います。
疏水は、優れた技術の結晶であると同時に、京都の情趣溢れる景観にマッチした 立派な芸術作品だと思います。
そのハイライトが、インクラインなのです。


山田さんの提案書が実現した インクラインを想像すると、ワクワクします。
山田さんも この提案書のなかで夢想されているように、日本で 京都だけしかないインクラインの通過を、都ホテルから外国人が眺めたら さぞかし驚嘆するだろうし、動物園からインクラインを遠望した子供たちや 美術館を訪れた恋人たちは、きっとインクラインに乗りたくなるでしょう。

山田正三さんは この寄稿文の最後に、こう述べられています。


この夢物語の実現の是非はともかくとして、「インクライン再現運動」を展開することによって、京都市民が 無意識のうちに、保存と開発問題に関心を抱き、世論を交わしながら 行政に関与する姿勢が芽生えてくることが、大事なことではなかろうか。


山田正三氏の 卓見に敬服するとともに、彼の夢が実現できないものだろうか もう一度俎上に載せて欲しいと、心から願うものです。


秋、南禅寺の水路閣の袂から山裾伝いに 疏水分流を辿り歩いています。
蹴上発電所の水力管のダム水槽に跳ねる魚の背が、水面に漂う落ち葉に彩られて 銀色に光る光景を、じっと眺めています。

そして インクラインから聞こえる 乗舟客の歓声を、遠い音として聞いています。
そんな情景が、いま 心に浮かびます。

インクラインの夢です。