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千本釈迦堂の十大弟子像

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どこからともなく漂い流れてくる、金木犀の高貴な香り。
秋空の京都の町中を 自転車で巡ると、金木犀の香りが追いかけてくる。
自転車に乗って、京都の町中の仏像、千本釈迦堂の十大弟子像を訪ねた。

「歴史は民衆がつくる」という 古くて新しい歴史の格言を、このたびの衆院議員選挙の結果 もたらされた政権交代に、喚起させられた。
それは、「英雄不在」であると同時に、民衆という 数多くの無名の英雄が 歴史を動かした、ということである。
今以上に 民衆が歴史を動かした時代が、あった。
いまから540年前、室町時代中期である。


京の町をことごとく焼き尽くした 英雄不在の戦であった応仁の乱は、この時期のエポック・メーキングである。
戦は 武家や公家の醜い骨肉争いであって、民衆にとっては この時期は格好の解放期であった。
民衆が、一つの社会的・政治的主体として 成長してきた時代だったのである。

とはいうものの、太平洋戦争の戦災をほとんど受けていない京都で 戦後といえば応仁の乱後を指すほどに、この乱の戦災は 甚大であった。
辛うじて この戦災を逃れた国宝級建造物が、千本釈迦堂の本堂である。


七本松通りを北に上がり 今出川を越えてトンと突き当たったところが、千本釈迦堂だ。
七本松通りは、今出川通りとの交差点 「上七軒」で 千本釈迦堂を迂回するように 西に振り、新七本松通りと名を変えて 寺之内通りで途絶える。

この新七本松通りのもう一つ南の分岐通り、上七軒交差点から北野天満宮の方に西北に延びている斜めの道路が、「上七軒通り」である。
ここは、江戸時代初期 遊女屋が公認された場所で、現在でもお茶屋が軒を連ねて 当時の面影が残されている。


千本釈迦堂は 正式には大報恩寺といい、兼好法師の徒然草に記されている如く 往時の境内は広大で 千本通りに面して東門があり、ご本尊が釈迦如来であることから、通称 千本釈迦堂で親しまれている。

現在、七本松通りが そのまま境内への参道となり、その真正面に本堂がある。
応仁の乱の時、この付近は西軍の中心部であったが、西軍と東軍の特別のはからいから庇護を受け、本堂が残されたといわれている。

本堂の 内陣と外陣の隔壁にある柱には、多くのキズがついている。
柱に残されたキズは、その時の刀や槍によってつけられた痕らしい。

内陣の中に またもう一つ内々陣があり、お厨子のなかに 秘仏・釈迦如来像が祀られている。
この内々陣を支える四天柱には、奇特な物語が語り継がれている。


本堂の造営を任された 棟梁の長井飛騨守高次は、貴重な柱の寸法を誤って切ってしまった。
進退極まり 途方に暮れていた高次を見て、妻の 「おかめ」が一計を案じ、ある提言をした。
その一計とは、寸足らずになった分を 斗栱(ますぐみ)を施して飾り継ぎ足す、というものであった。

この着想により 見事に本堂を落成させることができたが、上棟式の前日に 妻の 「おかめ」は自殺してしまう。
女の入れ知恵で棟梁の任を果たしたということが 世間に漏れては夫の恥と考え、すべてを秘密にするため、というのが自殺の理由であった。
高次は 妻の心情にうたれ、上棟式には御幣におかめの面を飾り、冥福を祈ったという。


本堂を出て、本堂の脇にある 無人の霊宝館に入る。
拝観券の半券を所定のボックスへ入れて 自動ドアを潜ると、古壁のにおいが少々きつく漂う大広間である。
ここに、お目当ての十大弟子像がある。

その十大弟子像は、ずらりと並ぶ六観音像に対峙して、90センチほどの身体から 十人十色の人間臭さを漂わせていた。
快慶、最晩年の作である。

わたしは かって、快慶という人物に惹かれ、興味本位で調べたことがある。
が、結局 よく判らなかった。
快慶は、運慶と並び賞される 鎌倉仏師だが、東大寺南大門の仁王さん造営の頃は まだ下っ端の見習仏師に近かったのではなかろうか。
快慶は、運慶率いる仏師集団に混じって 仁王さんを作りながらも、筋骨隆々の巨大像を 諾としなかったのではなかろうか。

運慶の作風は、運慶のもう一人の偉大な弟子、奈良・興福寺の金剛力士像の作者とされる定慶に引き継がれたとみるべきで、快慶は むしろ、師の運慶の作風とは異なる、やさしさと繊細さの境地に、その真骨頂を見出したように思う。

快慶は、源平の争乱で焼失した東大寺を大勧進職として復興を果たした 俊乗房重源(ちょうげん)に、深く帰依していた。
俊乗房重源は、三度も入宋するほどの高僧で、自らも中国で建設技術を習得したといわれ、また勧進活動によって 東大寺再興に必要な資金を集める才にも長けていた。

もともと 俊乗房重源は 真言宗の醍醐寺の出であり、当時 新興宗教であった浄土宗とは無縁であったが、浄土宗の開祖・法然に いたく傾倒し、のちに 「南無阿弥陀仏作善集」を作成するほどに 阿弥陀信仰に傾いた。
快慶は、俊乗房重源を通じて 阿弥陀信仰を深めていく。
三尺前後の阿弥陀如来像の作例が 快慶の作品に多く見られるのは、そのためである。


鎌倉仏師としては 比較的多くの作品が残っている快慶作品のなかで、わたしは、いま眼前に居並ぶ 千本釈迦堂の十大弟子像を、もっとも気に入っている。
いまだ悟りの境地に達していない、が、人間道の醜さ厭らしさに決別しかかっている、悩める人間としての修行僧たち。
その表情は、現世の隣人たちそのものであり、厳しさと同時に 抱きつきたくなるような親しみを覚える。

十色の悩みを共有できる この十大弟子像に、わたしは共感を覚える。
快慶の、リアリティ溢れる彫刻力と 人間そのものに対する深い関心が、遺憾なく発揮された作品と言えよう。


千本釈迦堂の境内をでて 現世に還れば、そこは 古い京都の町ん中。
今でも、この千本釈迦堂のあたりを、西陣と呼ぶ。
今でも、町家のところどころから 織機の音が、カタンカタンと聞こえる。
幼いころの郷愁が、この町のいたるところに 金木犀の香りにも包まれて 満ち溢れている。

小さい頃から親しんだ、来世と現世が、ここにはある。