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うつすとも水は思はず

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うつすとも
水は思はず
うつるとも
月はおもはず
さる沢の池


古い書物の整理をしていると、数冊の本の見開きや裏表紙裏に 上の句が、鉛筆や万年筆で書いてあるのを見つけた。
はっきり 自分のだと判る字で。

思い出した。
吉川英治に おそわった句だ。

あのころ、吉川英治の 「新・平家物語」 や 「私本 太平記」 を 読みふけっていた。
さっそく 古本をひっくり返して、「吉川英治 わが人生観・われ以外みなわが師」(大和出版) を見つけ出す。


上の句は、柳生家の道祖・石舟斎が子弟に遺した 秘剣の極意歌ということである。
吉川英治が、愛誦していた歌の一つだ。
極意歌ではあるが、剣道以外の心構えにも 多分な示唆をもった歌である。

誰が見ていようと 見ていまいと、映る月も 映す水も、何ら変わりなく 何らの意志も動いておらず、しかも、その あるがままな自然こそ、即、われわれの日常でなければいけない、ということなのだろう。


吉川英治は、そのような講釈よりも まず、ただただ唱誦してみなさい、と教える。
そして、自分のいまの胸にあるところの、ふとした屈託とか、退屈とか、弛緩とか、愚痴とか、心の凝結にふと触れて、それが静夜の水の如く月の如く、自然に解けてあるがままの姿になり得れば、それで充分に この極意歌の真の或る所まで悟ったものと云ってよいのではあるまいか、吉川英治は そう教えてくれるのである。


これまで、自分でもびっくりするくらい、数学や英語や 経済学や機械工学やら、勉強をしてきた。
それらは 確かに、生計をたてるには 必要だった。

でも、人の間で生活をし、人に助けてもらって生きていくのに、ほんとうに必要なのは、どうも そういうたぐいの勉強ではないように思うようになった。

文学でめしが食えるか、と父に詰られた、そういう ‘文学’みたいなものが、いまは いちばん大切なものに思えるのだ。


冒頭の句を 百万遍唱えようと、わたしには 吉川英治の言う 「或る所」に至るとは思えないが、この句が とてもいい句だということ、そのことは心底そう思う。

吉川英治が教えるように、この句を ただただ唱誦してみようと思う。