YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
運慶の大日如来像

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・・・興福寺は淡海公(藤原不比等)の御願、藤氏累代の寺也。
東金堂にをはします佛法最初の釈迦の像、西金堂にをはします自然湧出の観世音、瑠璃をならしべ四面の廊、朱丹をまじへし二階の樓、九輪そらにかゞやきし二基の塔、たちまちに煙となるこそかなしけれ。
東大寺は、常在不滅、実報寂光の生身の御佛とおぼしめしなぞらへて、聖武皇帝、手づからみづから磨きたて給ひし金銅十六丈の廬遮那佛、烏瑟(うひつ)たかくあらはれて半天の雲にかくれ、白毫新におがまれ給ひし満月の尊容も、御髪(みぐし)は焼けおちて大地にあり、御身は鎔(わ)き合ひて山の如し。
八万四千の相好は、秋の月はやく五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしく十悪の風にたゞよふ。
煙は中天にみちみち、ほのをは虚空にひまもなし。・・・


これは、平家物語のなかの 『奈良炎上』に出てくる一節である。
世に言う “平重衡の南都焼討ち”だ。

治承四年(1180年)、運慶は このとき、弱冠27歳(推定)であった。
南都焼討ちにより、東大寺大仏殿をはじめ 東大寺・興福寺の堂舎・僧房は、ことごとく焼失した。
仏教芸術にとって きわめて深刻な損失であったことは、間違いない。
しかし 運慶にとっては、この大人災は、大仕事に恵まれる 絶好のチャンスであった。
それも、仏師の祖・定朝(じょうちょう)によって がっちり固められた仏像制作技法に捕らわれることなく、運慶憧れの天平彫刻に 彼独自のリアリズムを加えた技法で、のびのびと表現できる好機だったのである。

運慶の父 康慶(こうけい)は、元は興福寺の下級僧であった。
当時、定朝の流れを継ぐ第四代康助(こうじょ)が、奈良仏師として 興福寺で古仏を修理していた。
その康助の弟子となった康慶は、仏師の技術と才能を認められ、第六世を継ぎ、京仏師の円派・院派に対して 慶派を創立した。
その康慶の長男として生まれたのが、運慶である。

運慶が二十歳を少し過ぎた頃、春日大社の奥の院・円成寺(えんじょうじ)の仏像制作を父から許される。
南都焼討ちの 4年前である。
運慶は、思いっきり腕をふるった。
運慶 最初の大仕事であった。
その出来上がった仏像が、円成寺の多宝塔に残る 大日如来坐像である。


秋の日、円成寺を訪れた。
京都から奈良へ行くには、山城路を進む。
今の、旧国道24号線である。

奈良へ差し掛かる奈良坂の峠を越えると 急に、遠望の天空に輝く 東大寺大仏殿の鴟尾(しび)が、目に飛び込んでくる。
あぁ 奈良だ、そう実感する瞬間だ。
峠を下ると、般若寺の標識が目立つ 三叉路に至る。
まっすぐ行けば、東大寺の転害門の前を通って 興福寺だ。
般若寺の三叉路を左折して、東へ進む。
この道、国道369号線の先は、柳生を通って 名阪国道に合流する。
柳生の里の少し手前、いかにも聖地らしい地名、忍辱山(にんにくせん)の地に、円成寺はある。
車で何気なく通れば、見過ごすだろう。

‘忍辱山円成寺’の石碑が立つ国道脇から石段を降りると、そこは 別世界のようだ。
浄土庭園の池には、大きな鯉が ゆうゆうと泳いでいる。
その池の向こうに、こんもりとした森のような木立に囲まれて 楼門が見える。
池畔にある門前茶屋のわらびもちの旗を横目で見ながら 池を回り、楼門左の通用門石段を上がって、境内に入る。

本堂(阿弥陀堂)は、応仁の乱直前に建てられた 室町建築である。
妻の側を正面とする妻入(つまいり)で、寺院建築では珍しい様式だ。
屋根勾配は緩く、軒は両端でわずかに反り上がって 見栄えがよい。
三間の向拝は、中央に階段、左右の柱間が舞台造りとなっている。
正面から この阿弥陀堂を拝して、わたしは とても美しい建築だと思った。

お堂の中に入って、さらに この阿弥陀堂に魅せられた。
六本の柱で支えられた内陣の奥に 本尊である阿弥陀如来像が安置され、その前に配された四本柱には、二十五菩薩の聖衆来迎図が 極彩色で描かれている。
臨終の際に極楽浄土から迎えに来るとされる菩薩集団が、円柱に舞うようにして 描かれているのだ。
色褪せかけた極彩色は、ことのほか 魅力的である。

しばらく お堂内部に動かずにいたが、お目当ての大日如来像を求めて お堂を出た。
運慶の大日如来像は、本堂脇の多宝塔に 安置されていた。
多宝塔の本尊である この大日如来像は、ガラス越しにしか 拝顔することができない。
両手で陽の光を遮りつつ、ガラスに顔を押し付けるようにして 覗き見る。

真正面のお顔、その鼻に吸い寄せられた。
人間臭く親しみ深い、団子鼻。
鼻筋通った飛鳥仏の鼻からみれば、これは仏の鼻ではない。

だいたい、大日如来とは 盧遮那仏であり、盧遮那仏とは 一切の仏がひとかたまりとなった全体の姿、考えようでは 仏界でいちばん偉い仏のはず。
青年運慶は そんな古来の様式を平気で打ち破って、若者の掛け値なしの生命の充実を 仏像という表現対象にぶつけたのであろう。
生気がみなぎっている。

鼻も惹きつけられるが、智拳の印を結んだ両手に、この像の本髄を見る。
この手の形、仏界すべての仏たちがもつ働きを一つに結集した 偉大な法力を発揮する この手の形に、若き運慶は、大きな決意を託したのであろう。
かたく結んだ智拳の印は、藤原時代の弱弱しい彫刻を捨てて、新しい力強い彫刻を生みだそうとする、運慶自身の決意だったに違いない。

さらに 驚かされるのは、運慶は、台座に自分の名前を墨書していることだ。
それまで 最高の棟梁でも、仏像に作者銘を記入することは、控えめにしていた。
それなのに、一仏師の長男というだけで 運慶は、堂々と墨書しているのだ。
ただものではない。
自信満々のふてぶてしさと取られる恐れ 大いにあるが、厳格な修行に裏打ちされた自信と その自信を心ゆくまで楽しむ本質的な才能から 自然に生まれる、頼もしい若者の気構えと解釈したい。

ただ 運慶については、仏師としての才能以上に、コーディネーターとしての才覚が、日本の彫刻家中 最も有名なものの一人としている、大きな要因である。
興福寺北円堂の弥勅仏坐像および世親・無著像や、東大寺南大門の仁王像は、運慶のコーディネーターとしての才が産ましめた名品と言えよう。

運慶のもう一つの強みは、優秀な同僚や弟子たちと同時に、六人の子の存在だろう。
そのうちでも 秀でた才能を開花させたのは、湛慶(たんけい)、康弁(こうべん)、康勝(こうしょう)の三人である。
運慶が その基礎を築いた鎌倉彫刻の作風は、これら芸達者な同僚や弟子、子どもたちによって、慶派として 全盛をみることになる。


ともあれ 円成寺の大日如来像は、若き日の運慶の記念すべき作品であり、これこそ世に問う檜舞台の像として 運慶は、彼の情熱を 力一杯彫り込んだに違いない。