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赤とんぼ、曼殊沙華、そして No More War

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打ち水に呼ばれ来て赤とんぼが舞い、新快速の車窓を赤の印象・彼岸花の群れが流れるこの頃になると、きまって思い出すひとつの句とひとつの情景があります。

赤とんぼ 一等兵の 墓の肩

上等兵でも二等兵でもなく、一等兵の墓の肩に、です。
もうずっと前 NHK第一ラジオで夜遅く放送されていた「にっぽんのメロディー」という番組の中で、むかし懐かしい曲が流れる合間に、いまは亡き 中西龍(なかにしりょう)アナウンサーのつぶやくような声で紹介された リスナーの投稿句です。

京都府亀岡市の保津というところに、祖父の分骨の墓があります。
母はお彼岸には、どういうわけかこの訳有りの祖父の墓に幼い私を連れて参りました。
保津の墓地には、たくさんの戦没者の墓がかたまってあります。
その星章の付くとんがり頭の墓標群の一隅に建つ墓の前で、年配の女性が泣いていました。
幼い私の目には、老婆のように見えました。
ほんとうに悲しいうしろ姿でした。
前のお彼岸にも その前のお彼岸にも、同じ姿で泣いていました。
三人の息子さんをみんな戦争で亡くしてしまって、少し気が触れているのだそうだと、母から聞きました。
その墓は、いっぱいの曼殊沙華で囲まれていました。

昭和20年5月生まれの私は、戦争を知りません。
戦争は知りませんが、戦後の日本がどんなに貧しかったか、戦争で傷ついた人たちがどんなにたくさん まわりにいたか、幼心に染み付いています。

学生の頃 反戦を口にすると、赤かと言われました。ノンポリだった私は、戦争だけは許せないという思いを強くもっていたにもかかわらず、反戦を声高に唱える理論武装がありませんでした。
いや、勇気がなかっただけです。
平和を願う気持ちに、理論武装など必要なかったのです。
反戦運動は政治に利用されがちです。ベ平連もそうだったのではないでしょうか。
ベ平連には、ほんとうに純粋な気持ちで反戦を訴えた若者が多かった。

いま 憲法改正が新しい政府で進められようとしています。
法律に疎い私ですが、少なくとも現行の憲法が戦争放棄をうたっていることに、誇りと信頼を覚えます。
国際貢献という名の下に行われる戦争加担に繋がる行為を、どうしても理解できません。

No more Hiroshima は、戦後日本の一大決心ではなかったか。
日本国民みんなの誓いの言葉ではなかったか。
戦争に繋がらない国際貢献で、正しい日本の心意気を示す方法があるはずです。

「お父さんはお人よし」という人気番組がラジオで流れた頃 「尋ね人の時間」という放送を単調なトーンのアナウンスで延々と聞かされました。
中国残留孤児の身元を尋ねる放送です。
私と同年輩か、少し上の世代の戦争犠牲者です。
ちょっと生い立ちが違えば、私も尋ね人を必死で探す孤児となっていたのです。

時を経て痛切に思うに、のど元過ぎて、あの張り裂ける悲しみの熱さを そんなに簡単に忘れてしまっては、決してなりません。

赤とんぼ、曼殊沙華、そしてNo more War。私のきわめて個人的な 反戦連想です。