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ぼくの愛する数式

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もう5年ほど前になるが、小川洋子著の 「博士が愛した数式」という小説がヒットし、寺尾聰主演で映画にもなった。
その数式は、次のようなものであった。

     e(πi) + 1 = 0

この数式は、ぼくには ちんぷんかんぷんである。
ただ なんとなく、きれいな数式やなぁ、とは感ずる。
e や i や累乗の意味が、ぼんやりながら 理解できるからかも知れない。


ぼくは、理系の頭を持っていないことを、自覚している。
でも これまで、無理やりにでも、理系らしい道を歩んできたことに、今では感謝している。
なぜなら、人間の感情や行動、この世の目に見えない不思議な現象、さらには 宇宙のことについて、何かわけの分からないものを知りたいという 自分には大切だけれども茫漠とした目的を 手探りするのに、理系の手法が とても役立つように思えるからである。
その手法の象徴的表現が、すっきりとした物理の数式なのだ。


高校で学んだ物理で 最も輝いていたのは、ニュートンの運動方程式だった。

     F = ma

つまり、力=質量×加速度 ということなのだが、力も質量も その正確な意味を理解するのに 一苦労だったし、ましてや 加速度という概念は、なかなか理解できなかった。
でも、この数式を まがりなりにも理解できたとき、大袈裟な言いかただけれど、この世の森羅万象がすっきりと説明できるような錯覚を 覚えたものだ。


アインシュタインの “悪魔の方程式” というのがある。

     E = mc(2)

エネルギーは 物質の質量と光速の二乗の積に 等しい、つまり、エネルギーと物質は等価であるという、超有名な数式である。
いま ぼくは、宇宙創生に 興味が向いている。
宇宙創生を空想するとき、なけなしの自分の頭脳で なんとか理解できる手がかりが、この アインシュタインの “悪魔の方程式”である。
悪魔、とは よく言ったものだと思う。
古典力学の 絶対空間・時間に慣らされた頭に、目に見えないエネルギーと 目に見える物質とが変幻等価などという発想は、まさしく “悪魔のささやき” であった。
この発想は、ぼくのような素人が、宇宙創生ビッグバンを 漠然とでも理解するのに、大きな助けになる。

同時に このアインシュタインの数式には、限りある命に 復活という快感の諦めを 想起させる力がある。
土葬だったころ、夭逝の墓に植えられた桜が 強い樹勢を示すのに暗示されるように、肉体という物質は 魂というエネルギーに姿を変えて 存在し続けるのかもしれない、そんな 美しい諦めの想いを引き出してくれるのだ。


ユダヤ系ドイツ人だったアインシュタインは、ヒットラーに嫌われ アメリカに亡命した。
そして、核分裂が軍事的に利用される危険性を 世界に訴えつづけた。
同じドイツの物理学者である ハイゼンベルクは、アインシュタインに優るとも劣らない頭脳と発想力を持ちながら、アインシュタインほど人気はない。
ナチスに組して、ドイツの原子爆弾研究を指導したからだろう。
このハイゼンベルクが確立した 有名な量子力学の原理に、不確定性理論というのがある。

     ⊿x・⊿Px ≧ h/2 (h は、プランク定数を2πで割ったもの)

一個の粒子の位置xと その運動量Pxを同時に測定した場合、測定値には必ず或る不確定さ⊿x, ⊿Pxが伴い、その間に 上の数式で示される関係が成立する、というものだ。
この不確定性理論は、観察しようとする行為そのものが 観察の対象を変化させてしまう、という ジレンマを表現している。

ぼくには このハイゼンベルクの数式をほんとうに理解する力はないが、文学的には納得できる。
この世の中は 割り切れぬことばかりだし、ぼくのまわりの ごく些細なことがらでも、甲乙すっきり説明できるなんてことは ありえない。
この数式を つらつら眺めていると、割り切れぬままに ありえないとの思いのままに、現実を しゃーないなぁと、受け止めることができそうに思えてくるのだ。


今のぼくにとって、アインシュタインの悪魔の方程式も ハイゼンベルクの不確定性理論式も、混沌の世を だましだまし生き抜くための、“ぼくの愛する数式” でなのである。