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ぼくの祖先はヒッタイト人?

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ひとは 或る年齢に達すると、自分のルーツを辿りたくなるといいます。
還るところを知りたくなる、ということなのでしょうか。

ある会合で、鉄に関するお話をする機会があり、その話の素材を探るうち、父の祖先に思いが至るようになりました。


父の出身地は、滋賀県栗東市の辻というところです。
名神高速で走れば、京都から30分もかかりませんが、堅田から琵琶湖大橋を渡って、レインボーロードをまっすぐ走ると、国道8号線に突き当たります。
そのT字路が、辻という交差点です。
辻村は この交差点をまだ東へ入ったあたりなのですが、父は その北を流れる野洲川の向こう、通称 「近江富士」と呼ばれている三上山のふもとで生まれました。
若くして京都に出て、機械工の仕事に就きました。
負けず嫌いのせいか、早くに一人前の職人になったようです。

当時 ぼくの祖父は、名古屋にある大隈鉄工所の関西代理店をしていました。
大隈鉄工所は、いまは片仮名でオークマと書きますが、工作機械メーカーでは押しも押されぬ大企業になっています。
そのオークマは、もとは製麺機械メーカーでした。
製麺機械の心臓部が、麺を線状にする部品、当初はこれを歯棒といっていましたが、いまは切刃と称しています、この部品を機械加工するのに、最初は英国製の旋盤を輸入して作っていたらしいのですが、累積誤差が出て どうしても満足な加工ができない。
そこで旋盤を自社製作して、作り出した。
歯棒を作る旋盤製作が昂じて、大隈鉄工所は 工作機械作りに精が出ます。
工作機械のほうが忙しくなって、製麺機械の特許を代理店に渡して、工作機械専門メーカーになってしまいました。

ぼくの祖父も、製麺機械の代理店からメーカーに転向しようとしたのですが、なにせ、祖父には ものを作る技術がない。
そこで白羽の矢が立ったのが、父だったというわけです。
父は、手は器用でしたが 工場経営は素人で、大勢の癖のある職人を束ねていかなければならない、まあ 相当な苦労だったと想像します。

そういうことで、父は根が職人で、そこへもってきて養子となったものだから、口数は少ないし、頑固だし、息子のぼくとは まともな会話らしい会話はしたことがありませんでした。

そんな父があるとき、ふっと 「わしの父親は “イモジ”やった」と言ったのです。
その時は、なにか隠語っぽい言葉やなぁ と思っていましたが、“イモジ”がなにかということには ついぞ思いは至りませんでした。
ずっと後でわかったことですが、“イモジ”は、鋳物師と書きます。


ところで、栗東の辻というところは、田中、太田、国松という苗字が多い土地です。
父の里の姓は、国松といいます。
ほとんどみな、イモジの先祖をもっていると言えるのではないでしょうか。

辻村は 江戸時代、鋳物業が盛んで、鍋釜の一大産地でした。
ここは、東海道と中山道の分岐点で、すぐ南のほうには 賑やかな石部の宿がありました。
石部は、「京立ち、石部泊まり」 と言われるほど、京から江戸へ旅する最初の宿泊施設でした。
江戸幕府が開かれて、世の中が平和になって、急に民需の鍋釜の需要が増えたということなのでしょう。

辻村のイモジたちは、出職をするのが常でした。
この 「出職(でしょく)」というのは、出稼ぎに違いないのですが、手に職をもった、れっきとした職人の長期間の出仕事で、性格的には杜氏に近いと考えます。
辻村へ帰ってくるのは、盆と正月だけで、村には妻子を必ず残していました。
それは、ここを配下に置く膳所藩の施策であって、税をしっかり取り立てるためでした。

江戸時代、膳所藩は京・大坂に睨みを利かせる重要な要所であって、その力は強大だったのです。
ところで、出職に対して、自宅で仕事をする職業が 「居職(いじょく)」です。
裁縫師や印判師などが、それです。
今のように便利なトラック便がなかった当時は、鍋釜のような大きな商品を運ぶのに莫大な費用がかかったので、出職して現地生産したのです。


山城国・三条釜座に 「辻与次郎」というイモジがいました。
いまも 京都には釜座(かまんざ)通りが丸太町通りより南に通っていますが、江戸時代 三条釜座付近は、鍋釜を売る店でいっぱいだったのでしょう。
辻与次郎は、三条釜座に出店した 伝説の釜大工で、千利休のお抱え釜師でした。

阿弥陀堂釜という茶道釜があります。
千利休が、好んで使った形といわれています。
天正3年(1575年)の銘がある 与次郎作らしき阿弥陀堂釜が残っていますが、与次郎の名は刻まれていません。
与次郎は、日本刀の正宗と同じで、ひとつのブランドでした。
この鉄茶釜、ツバがありません。
坊さんの頭みたいな格好をしています。
だから、阿弥陀堂釜という名がつきました。
肩が穏やかに張って、胴部はたっぷりとした尻張り釜、これが、与次郎独特の作りといわれています。
胴まわりに、字が浮き出てます。
この鋳出し銘を 「陽鋳名」と称しますが、鋳出し銘そのものも高度な鋳物技術が要り、丸味のある肩に鋳出しするのは、そうとうな技です。


京都東山の豊国神社に、高さ3m近い鋳物製燈籠があります。
これには、はっきり 「釜大工与次郎」の銘が入っています。
与次郎作とはっきりわかる 数少ない遺作で、重要文化財に指定されています。
基壇には獅子と菊・桐文を表しており、竿(基柱のこと)中央部には箆押しによる雲龍文が描かれています。
竿の上下がわずかに広がりを見せた円筒形なのに対して、火袋部は上下がわずかにすぼまっていて、快いリズム感を生んでいます。
多少なりとも鋳造技術をかじっている者にとって、なによりもびっくりするのは、きわめて薄く美しく鋳きあがっていることです。
それも、錆具合がきわめて軽いのです。
鋳物湯に、錆びにくい合金元素が含まれていたのかもしれません。


話が脱線しますが、鉄の考古学埋蔵物がきわめて少ない理由は、鉄が錆びて土に還るということと同時に、溶かして他の必需品に鋳き直される、つまり、鉄が再利用されやすいということが挙げられます。
このことはたいへん重要な意味を持っており、鉄が環境にやさしい金属だということを証明しています。
話を戻します。


近江国高野辻村に、田中藤左衛門というイモジがいました。
この人物は、古文書から、どうも辻与次郎の弟らしいということが判っています。
与次郎については 辻村側の資料はないのですが、藤左衛門については 田中姓の名が残っており、その作品は 甲賀町や三重県下に数点残されています。
藤左衛門の作風は、丸釜に代表されるように、素朴な辻村イモジ特有の作りです。
一方、与次郎は、三条釜座の作にふさわしい厳かさをもっています。
兄弟といえども、別々の道を歩んだことが、遺品から伺えます。


田中藤左衛門と同時期に、国松源七というイモジが活躍していました。
その作品に、鋳銅製の鰐口(わにぐち)が残っています。
慶長4年、つまり1599年に作られたことが、鑿彫りの陰刻ではっきりうかがえます。
裏面に 「江州栗本郡高野国松源七」と銘が入っています。
中央の八葉素弁の撞座などの素朴な形は、田中藤左衛門の作品に通じるものがあります。

半分以上 空想ですが、この国松源七の末裔が、ぼくの父親らしいのです。

それはさておき、京都方広寺の釣鐘は、その銘文 「国家安康」に難癖をつけて大坂の陣が起きたことで有名ですが、この釣鐘の鋳造のために 奉行の片桐且元は、国中のイモジに召集をかけました。
辻村イモジは その触れ役となって活躍し、釣鐘鋳造を中心的に担ったということが、記録に残っています。

武蔵国江戸深川に、太田六右衛門と田中七右衛門が、辻村から出職しています。
両名とも、江戸初期に深川に出店して、幕府御用達になっています。
釜六、釜七の愛称で親しまれ、江戸の長者番付の常連になるまでに、商才がありました。

また、辻村から江戸小網町に出店した田中次左衛門は 田中七右衛門のいとこで、鍋釜だけでなく、伊吹もぐさを一手に商い、富士治左衛門と改名して、大店となりました。

南部藩に請われて 辻村から奥羽国鹿角(かづの)郡瀬田石村に出職した田中彦兵衛は、出羽の鉱山開発に関わったと推察されています。
幕末に現れる大島高任(たかとう)、この人は、釜石製鉄所の生みの親で、近代製鉄の父と言われる冶金技師ですが、田中彦兵衛の出職は、こういう人物の出現に大きく影響を与えたものと思われます。
田中彦兵衛のように、幕藩領主に雇われて地場産業開発の技術部門の担い手になったイモジも、かなりの数いたようです。


加賀国金沢に出職した 辻村出身のイモジに、武村弥吉がいます。
1658年に武村弥次兵衛とともに出職して、代々前田藩に仕えるわけですが、この人物はかなりのインテリで、『冶工(やこう)由緒記』という、辻村イモジの由緒、諸国出職の経緯、真継(まつぎ)家支配との争いなどを こと細かく記録した、貴重な資料を残しています。

この真継家なのですが、これが癖もので、一応 蔵人所の下級役人なのですが、全国のイモジを支配するのです。
もともと、辻村は膳所藩の支配下にあるので、税は膳所藩に納めていました。
ところが、この真継家は、イモジ職の免許状を交付する見返りに、その認可料をちゃっかり取りあげていました。
例えは悪いのですが、今の ISO22000や ISO9000に似たところがあります。
真継家は、偽の免許状を発行して しこたまもうけるようなこともしていたようです。
この免許状は、諸国自由通行許可証も兼ねていましたから、出職したいイモジは どうしてもこれが欲しい。
イモジたちにとっては、必要悪みたいなものだったのでしょう。
さっき紹介しました武村弥吉の書いた 『冶工由緒記』に、そのあたりの仔細が伺えます。

国松なにがしは、この真継家のやり口に腹を立てて 免許状を拒否したものだから、正規の出職ができませんでした。
この国松なにがしが 父の祖先かどうかは判りませんが、父の性格とよく似ていますから、ひょっとして そうかもしれません。


近江国高野辻村に、太田西兵衛というイモジがいました。
この人は、辻村の西に住んでいたから西兵衛といったらしいのですが、ほとんどのイモジが出職するなか、辻村に残ったのは この太田西兵衛と太田角兵衛のみだったらしいです。
太田西兵衛は、地元の鍋釜の需要に応えながら 職人の育成にあたっていました。
各地に出職したイモジは、技術者を辻村から呼び寄せるわけですが、そういう地元技術者の養成所みたいなことも兼ねていたのです。
免許状のない国松なにがしは、この太田西兵衛のところで工場長みたいな形で働いていたようです。


話が長くなりましたが、江戸時代の辻村イモジ集団は、このように出職という形で全国に散らばっていったわけですが、そこには近江商人の魂が騒ぐ人間もいて、大店になる者もおれば、技術者魂が騒ぐ人間もいて、幕藩領主に召し抱えられて製鉄技術者の一翼を担う者も出てきたわけです。

こういう辻村イモジのような集団は、あっちこちにあったようで、河内の大阪狭山市にも大きなイモジ集団がありました。
狭山イモジの出職先の一番大きなところは、富山の高岡です。
高岡は、前田利長の居城のあったところで、利長の保護奨励を受けて銅器・鉄器の製造が盛んにおこなわれたのですが、そのきっかけは、狭山から招いたイモジでした。

さて、辻村イモジ集団の源流は、ということなのですが、確かなことは判っていません。
和銅元年、つまり708年に、武蔵国秩父郡から大量の国産の銅が大和朝廷に献上されるのですが、それを使って日本最初の銅貨 「和銅開弥」の鋳造が始まります。
大蔵省の典鋳司の一部署として、鋳銭司が畿内の数か所に置かれることになるのですが、そのひとつが、辻村を中心とする高野郷に置かれました。
鋳銭司で働く技術者を鋳銭師と言いますが、この鋳銭師の流れが、辻村イモジの源流かもしれません。

それでは、この鋳銭師は一体どこから来たのか、それが問題なのです。

これは大胆な推測ですが、その源は、奥出雲のタタラ集団ではなかったか、そんなロマンが、数パーセントの可能性をもって想像できそうです。

タタラは、わが国で古くからおこなわれてきた製鉄技術をいうのですが、その中心は、良質な砂鉄が豊富に採れた奥出雲地方でした。

奥出雲というところは、とってもミステリアスなところで、まず思い浮かぶのは、ヤマタノオロチ伝説です。
スサノオノミコトが恐ろしい大蛇を退治する話ですが、この大蛇はどうも、タタラを暗示しているようです。
「大蛇の八つの頭の目は、ほおづきの如く、腹はいつも血でただれている」というのは、点在するたたら製鉄所の炎が赤い目で、血でただれている腹は融けた鉄をさしている。
「背には杉、檜、苔が生い茂り」は、大量の木炭を得る山。
そして「八つの尾」は、砂鉄を洗う川で、現在の斐伊(ひい)川の上流支流を表現したものと思われます。
「大蛇の尾を裂くと、アメノムラクモの剣、つまり草薙の剣が出てきた」
のは、タタラ製鉄でできた鉄から剣を作ったことを示唆しています。

奥出雲は、また、アニメ 『もののけ姫』に登場する “タタラ場”の舞台であり、かっての自然破壊の象徴にもなっています。

さらに、松本清張の 『砂の器』の問題の村があったところで、亀嵩(かめだけ)駐在所は いまや名物場所になっています。
こういうオドロオドロしたイメージは、地元の人たちはきっと、あまり良い気分ではないと思いますが・・・


タタラで働く集団は、ひとつの厳しい組織で、タタラ操業の総監督を、村下(ムラゲ)といいました。
タタラという名は外来っぽいですが、このムラゲという呼び名も異国の匂いがします。

もともと出雲の民は争いごとを好まず、大和朝廷からの無理難題にも平和的に対応したのではないか、そのひとつが、タタラ技術の大和への移譲で、タタラ師集団の放浪の旅は、ここから始まるのではないか。
彼らは古くはおそらく漂流の民で、あたかも後世にみる山窩(さんか)のようなかっこうのものであったろうと考えられています。


ところで、タタラ師が信奉する神に、金屋子神(かなやごかみ)があります。
金屋子神社の本社は、安来市を飯梨川沿いにさかのぼって奥出雲町に入る手前、広瀬町西比田(ひだ)というところに、ひっそり建っています。
この金屋子神がまた、人間臭くて、ヒステリックに神秘的なのです。
どうも女神様のようで、たぶん醜女で、嫉妬深くて、タタラには女性を近づけることを許さず、犬が嫌いで、死人が好きで・・・
最初、高天原から播磨の国千草のあたりに降り立って、その地で鍋釜を作る技術を教えた後、白鷺に乗って出雲の国の、西比田の桂の木に降り立ちます。
そして この地で、砂鉄から鉄を作る秘法を授けたということになっています。

この女神、出身地は朝鮮半島のようで、稲作などの大陸文化を携えてきた神々の一員と思われます。
製鉄技術が 朝鮮半島を渡って日本に伝えられたことは、間違いないようです。


ところで、タタラという言葉ですが、その語源に定説はないものの、中央アジアで製鉄を最初に手がけたヒッタイト人から、トルコ人に技術が受け継がれ、とりわけ製鉄技術に長けた部族の名称 「タタール」に、その語源があるとする説がもっとも魅力的です。

ムラゲ(村下)という言葉も、タタール人が伝えた言葉とすると、しっくりきます。
イモジ(鋳物師)という言葉も、同類ではないでしょうか。

もし、タタラ師の先祖がタタール族であるなら、遊牧民族であるタタール族の血は、漂泊の民タタラ師集団に受け継がれているはずです。
そう考えると納得のいくことが、多々あるのです。


父の里である栗東・辻の地から、辻村イモジ集団に移り、それがタタラ師集団に飛んで、ついには小アジアのヒッタイト人へ至りました。

「ぼくの祖先はヒッタイト人?」という空想も、数パーセントの確率をもったロマンと解しても、許されるかもしれません。

彼岸の日に 祖先に思いを馳せる、とりとめのない独り物語りです。