YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
いま、日本映画がおもしろい

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遠い音を耳にすることが めっきり少なくなりました。
西大路通りに住んでいた頃、枕の下から 円町の陸橋を渡る山陰線列車のガタコトガタコトという響きが伝わってきてそれがけっこう催眠の役目を果たしてくれました。
間伸びした汽笛の音は、物悲しい寝入りの儀式音でした。

叱られて家を飛び出して、とりあえず紙屋川をさかのぼり、西陣あたりをぶらついて カタンカタンと織機の音に里心をくすぐられ、夕暮れすずめがにぎやかに、それもいつしか遠くなり 紙屋川べりの台所から茶碗の洗う音がして、すっかり夕闇せまる頃、ばあちゃんのとりなしを当てにして 急いで家に・・・
遠い以前の 遠い音とともに思い出す記憶です。

都会を離れて 遠い音に感動することもあります。
誘われて四万十川で鮎つりをしていたとき、上流の点としか見えない釣り仲間の 川風に乗って大きくなったり 小さくなったりして渡ってきた ぶつぶつつぶやく声。
近くでなら騒がしいとしか感じない仲間の声が、ねんねこの中で聞いた母の背の声のような・・・。
大空を大きく旋回する鳶の ぴーひょろろが 懐かしいのは、むかしむかし 人間が鳥だったのかもしれない証でしょうか。

「待つ」ということも めっきり少なくなりました。
携帯電話の便利さと引き換えに、待ち合わせの はらはらどきどき は、もう遠い過去の語り草です。
大切な人からの手紙を いまかいまかと 郵便受けに幾度となく目をやるじれったさ。
1時間に1本の鈍行列車を待つ、諦めに似た でも安寧な気持ち。
みな 遠くへ行った記憶です。


『あかね空』 という映画を観ました。
観終わったとき、なぜか “遠い音” や “待つということ” を想起したのです。
きっと 体の奥深いところに沈んでいる 忘れかけていたものが、この映画で揺り動かされたからだと思います。
職人、家族、市井のぬくもり、人情・・・そういった 失われゆくかにみえるもの、本当は日本人に共通して備わっている “体質” であり、いまはかりそめに忘れているだけに違いない。
そう 願いたくなる映画でした。

いま、日本映画が面白くなってきました。
映画の作り手が いち早く本来の日本人に たち返っているからでしょう。
映像でなら 忘れかけている日本人の本質を素直に表現することができる。
これからも 『あかね空』のような良質の日本映画が、もっともっと観られるような気がします。

ラーメン屋の美味いところの情報は がっかりすることが多いのですが、尊敬する人からの映画情報には 裏切られたためしがありません。
実は この『あかね空』も そういう情報のお陰で出会うことができました。

これからは、私からも映画情報を発していきたいと思います。
映画ほど面白いものはないのですから。