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メンデルスゾーン

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胸をキューっと締め付けられるような旋律ではじまる、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64 第一楽章。
宗次徳二氏も、この悲しい旋律がきっかけでクラシックを愛するようになったと知り、彼に無条件に親しみを覚えた。


カレーの店CoCo壱番屋創業者・宗次徳二(むねつぐとくじ)氏の、講演を聴く機会があった。
宗次徳二氏、1948年生まれ。
わたしより 3つ年下である。
生後まもなく、孤児院に預けられる。
3歳のとき、宗次姓の養父母に 養子として引き取られる。
養父のギャンブル狂が原因で 各地を転々とし、最終的に落ち着いた先の名古屋で 高校を卒業する。
喫茶店から始めた事業は、カレーの店フランチャイズシステムを軌道に乗せ、みるみるうちに東証一部上場。
54歳で早々と株式会社壱番屋の会長職を辞し、音楽家やスポーツ選手を支援するNPOイエロー・エンジェルを立ち上げ、また クラシック専用ホールを建設して その代表に就く。

この尋常でない経歴から想像される人物像から、宗次氏は程遠い。
物腰の柔らかい上品な容貌。
ただものでないことは 表情の端々にうかがえるのだが、同じ価値観を持つ 仲間のごとき気安さを感じさせてくれる。

宗次氏が高校に入ってまもなく 養父が他界し、生き別れていた養母と一緒に暮らすようになってから、彼の生活は やっと 心安らぐひとときを持てるようになる。
そのころ バイトで貯めた金で求めた中古のテープレコーダに 初めて録音したのが、これも中古で買ったテレビから流れる旋律、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だった。

このとき、メンデルスゾーンの悲しい調べが、彼のはらわたに浸みわたったことは、想像に難しくはない。


人との出会いと同様、音楽との出合いもまた、運命的である。
わたしも あのとき、あの映画をみなかったら、生涯 クラシックに興味を持たなかったかもしれない。

夢遊病者のようだったころ わたしは、気分転換になることを期待して、映画を片っぱしからみていた。
小さいころから映画好きだったからだが、むさぼるようにみた あの頃の映画を、ほとんど覚えていない。

戦時中のポーランドかどこかが、舞台だったような気がする。
ひょろっとした色白の青年が、秘密文書を仲間に届ける場面だった。
託された文書を目的の人物に手渡すべく、とある鉄道駅に降り立った青年は、ごった返す人の群れの中から、その人物を ある方法で探し出す。

その人物は、古びたヴァイオリンで、メンデルスゾーンの あの旋律を弾いている。
あらかじめ聴かされて覚えていた その旋律から、その人物が間違いなく目的の人だと確信する。
その人物の名も また、メンデルスゾーンといった。
ユダヤ系の名であるから、たぶんあの映画は、ナチスドイツに追われたユダヤ人の地下組織を描いたものだったに違いない。
だが、ストーリーも 役者の名も 監督も、題名すら、覚えていない。
ただ あの悲しげな旋律だけが、耳の奥底にこびりついて 残っている。


あの旋律が、メンデルスゾーン作曲・ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64第一楽章の出だしだということは、ずっとのちになって知った。

ヴァイオリンのこの旋律をきくと、時間が止まったようなあの頃の 無為な自分が、よみがえってくる。
そして 同時に、メンデルスゾーンという名の響きに、不思議な懐かしさを覚えるのだ。

夜中に目が覚めて眠れないまま、音量を小さくして いま、繰り返し繰り返し 第一楽章を聴いている。
悲しいけれど、穏やかな気持ちで。