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孤高のメス

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NHKハイビジョンテレビの 『100年インタビュー』に、陶芸家の14代目酒井田柿右衛門氏が登場しました。
焼物に まったく無知なぼくは、最初 軽く聞き流していました。

一通り工房が紹介されたあと、渋い離れで インタビュアの渡邊あゆみさんが、柿右衛門氏に しだいしだいに 突っ込んだ質問をしていきます。
ゆっくりと、にじみ出すように、柿右衛門氏は これに答えていきます。

柿右衛門陶器の特徴は、『濁手(にごしで)』 『赤絵』 『余白』だと知りました。
ぼくは、『濁手』の話に、とくに強く惹かれました。

濁しとは、佐賀の方言で 米の研ぎ汁のことを言うのだそうです。
米の研ぎ汁のように温かみのある白色の地肌をもつ素地が、濁手です。
柿右衛門氏は、濁手について、興味深い 彼の思いを語ってくれました。


李朝白磁やマイセンは、ピュアーな白、混ざりけのない白を旨とします。
一方 濁手の白、ことに初期柿右衛門の濁手の白は、温かみのある乳白色です。
不純物を完全に除去できない素材の味が、にじみ出ているのです。

日本人の感性は、この不純物が醸す微妙な味を感じ取り、そこに美を見出します。
純粋はきれいだけれども、きれいなだけでは 美しいとは言えません。
濁手の美しさは、不純物の味なのです。

表現は正確ではありませんが、柿右衛門氏がおっしゃった意味は、おおむね上のようなものだったと記憶します。
自分に確かめ確かめ語る柿右衛門氏の言葉は、ひとことひとこと ずしんと心に響きます。
美術評論家では聞けない、ものづくり現場を嘗めつくした達人の言葉に、酔いしれました。

きれいなだけでは 美しいとは言えない。
この言葉は、深い深い意味を蔵しているように思います。

ところで、近頃 街で見かける若い女性は、みんなきれいに見えます。
でも ぼくには、みんな同じようなきれいさに見えてしまいます。
化粧の仕方のせいなのでしょうか。
14代目柿右衛門氏の言葉が、よぎります。


柿右右衛門氏の崇高なお話から、ぼくの好きな女優さんの美しさを分析するのは、気が引けるのですが・・・
濁手の美の話から、大原麗子さん、夏目雅子さん、そして夏川結衣さんの美しさの秘密を、連想してしまいます。
彼女たちは もちろんきれいな女優さんですが、単にきれいなだけじゃない。

去年の夏 寂しすぎる去り方であの世へ旅立った大原麗子さんは、ぼくと同世代の女優さんのなかで、いちばんかわいくて いちばん魅力的な人でした。
サントリーレッドのCM < 少し愛して…なが~く愛して > は、貴重な国民的文化遺産だと 勝手に考えています。
大原麗子さんには、甘えん坊とか、ハスキーボイスとか、天然とぼけとか、そういった ひとつ間違えば欠点と捉えられかねない不純物が 含まれていました。
そういう不純物が、彼女に 抱きしめたくなるほどの魅力を、付与していたのだと思います。

27才という若さで夭逝した夏目雅子さんは、佳人薄命を地で行くような、稀にみる美人でした。
彼女のとろけるような美しさは、どこから来るのでしょう。
ぼくは そのことを考えると、決まって 興福寺の阿修羅像を思い浮かべます。
夏目雅子さんの眉や目元と、阿修羅像のそれが重なってしまうのです。
内面的な秘めた苦悩、これ見よがしでない人間臭さが、彼女に怪しげな美しさを与えているように思えます。
これは、完璧ではない証左としての不純物だと、言えなくもありません。
この 不完全さゆえに共感できる美しさこそ、夏目雅子さんが いつまでもみんなに愛され続けている理由でしょう。

夏川結衣さんは、お日様みたいな女優さんです。
姉御肌と評されていますが、あんなにあったかそうな女優さんを、ぼくは他に知りません。
一緒にいたら 口げんかばっかりしていそうな、それでいていつもそばにいて欲しい、気の置けない美しさに満ちています。
この 屈託のない夏川結衣さんの美しさは、実は 人見知り、孤独性の裏返しのような気もします。
だから、ほっておけない明るさなのです。
これも、除ききれない不純物を持っているが故の いとおしい美しさだと、勝手に解釈しています。


さて、その夏川結衣さんが、彼女自身が出演している映画 『孤高のメス』について、ある雑誌に こう語っていました。

「演じていて、私は浪子がすごくうらやましいと思いました。
彼女は、自分の一生に関わるほどの影響を与えてくれた人と出会えたのです。
一番大事な、生きるヒントを もらったのです。」


命をつなぐとは何かを、観る人それぞれの立場から見ていただけると思います、夏川結衣さんは、自信を持って そう語っていました。


夏川結衣、そしてもうひとり 気になる女優さん、余貴美子も出演しているし、大鐘稔彦(おおがねなるひこ)著の原作(幻冬舎刊)は文庫でも全6巻で とても読破できそうもないし、これは映画をみるしかない…ということで、映画 『孤高のメス』を観にいきました。

20年前、まだ脳死肝移植が認められていなかった時代にオペを決断した医師・当麻(とうま)と、その当事者家族の物語です。
夏川結衣さんのコメントに、偽りはありませんでした。

映画 『孤高のメス』は、難題の臓器移植を騒ぎ立て過ぎずに正直描写しながら、臓器移植に関わる人間模様のほうを主題にしていて、見ごたえ十分でした。
医療ものの映画やドラマが多作されるなか、この映画は、きわめて良質の出来だと思います。

孤高とは、主人公・当麻鉄彦の生きざまをさした表現でしょうが、孤高という言葉、いいですね。
孤独でも、孤立でも、もちろんありません。
ピュアーでもないと思います。
むしろ ピュアーでは、孤高ではありえない。

清濁併せ持ちながら、己の信ずるところを、超然と貫き通す。
自己の濁りを、俗っぽい 「水清ければ魚棲まず」的な濁りとして茶化すのではなく、その濁りを本性と見抜いて、あえてその濁りを忘却した姿が、孤高なのではないか。

当麻医師の姿は、濁手を熱く語る14代目柿右衛門氏に重なり、ともに まさに孤高の人のように思えました。
一生にひとりでいいから、人生に影響を与えてくれる人に出会いたい。
この夏川結衣さんの願いは、きっとこういう孤高の人なんだろう、そう確信できました。


孤高のメス、ほんとうにいい表題です。