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ある思い出

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きのう人を傷付けた言葉には てんと無頓着なくせに、遠い昔に知らず知らずのうちに犯していた罪を思い出すことが、このごろ多くなりました。

遠い昔のことです。
もう忘れてもいいはずなのに、いまだに引き摺っている 罪の意識。
人が聞けば、「なーんだそんなこと」で片付けられてしまいそうな些細なことですが、自分の中では、それを忘れてしまっては自分の全人格を否定してしまいそうな、大げさですが、拭いきれない悔恨の念として蘇えってくるのです。


幼稚園に 「オンリーさん」の子がいました。
オンリーさんなんて言葉はとっくの昔に死語になっていますが、当時でも 「パンパンガール」と一緒くたに見ている人がほとんどでした。
オンリーさんとは 進駐軍の士官のお妾さんです。

その子は、今で言うハーフですから、とてもかわいらしい女の子でした。
出自をとやかくいう度合いは、今では想像できないくらい えげつない時代でしたから、彼女はいわゆる 「いじめられっこ」でした。

私より一つ下でしたが、無口な子だったのに なぜか私には親しげに話し掛けてくれました。
私も彼女を守ってあげたいと、子供心に誓っていたのです。

“事件”は学芸会に起こりました。
その子は 『その他大勢』の役柄で、舞台で他の子供たちと何かの演技をしていました。
セリフを忘れたのか動作が違っていたのか、舞台の上で 「いじめ」が始まったのです。
私はその子のすぐそばにいたのに、舞台の上という晴れがましさもあって、その子をかばってやろうとしませんでした。

そのときから その子とひとことも言葉を交わすことはないまま、記憶からその子は消えてしまいます。


敗戦直後、日本政府は占領軍相手の “性の施設”を作りました。
当時の内務省は全国の警察に、性の防波堤を作って一般婦女子を守るために 「進駐軍のための特殊慰安施設をすみやかに整備せよ」と無線で指令を出しました。
政府出資による特殊慰安施設協会(RAA)が それです。

「ダンサー2000名、女給3000名、ダンス教師数名募集」の看板が銀座に出されました。
「衣食住及び高給支給、前借にも応ず、地方者よりの応募者には旅費支給す」という特殊慰安施設協会の新聞広告に魅せられて、売春婦のことだとは思わずに応募してくる素人女性も多かったといいます。


このことを いま問題にしているのではありません。

彼女たちを日本の汚点や汚辱としてしかみなすことができなかった当時の大人たち、

とりわけ彼女たちのお陰で性の蹂躙に遭わずに済んだかもしれない 陰口好きな “おねえさん、おかあさん”たち、

そしてその陰口を真に受けて彼女たちを 「パンパン、パンパン」と囃したて そのハーフの子を虐めていた当時の子供たち。

なによりも、そのことを普通のことのように流していた自分自身。


学芸会で助けを求めるような目で私を見ていた あの女の子のひとみを、そしてそのひとみを無視した なさけない自分を、60年近く経った今、深い悔恨の念で思い出すのです。