YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
可愛いイレーヌ

文字サイズを変える
文字サイズ大文字サイズ中



大阪・中之島の国立国際美術館で開催されていた 「ルノ。」(ルノワール展)は、この前の日曜日で終わりました。
最終日の前日、京阪電車を乗り継いで 午前中に入場。
美術館を出るころには、雨の会場前に 入場30分待ちの列ができていました。


街角のあちこちに貼ってあった ルノワール展のポスターに掲げられた絵は、『可愛いイレーヌ』です。
この絵の “ほんまもん”に会いたかったのです。

絵画ファンの多くがそうであるように、私もルノアールの絵が大好きでした。
ロココ美術に憧がれ、その延長線の終着が ルノワールでした。
でも もう、ロココもルノワールも、眩しすぎます。
この 「ルノ。」展は、4月17日から開催されていましたが、最初は観にいく気はありませんでした。
遠い恋人は そっとしておきたい、みたいな、変な諦めがありました。


実は、いま、レンブラントに魅せられています。
ロココとは正反対の、陰気くさくて重々しいバロック美術の終着みたいなレンブラントに惹かれるのは、やはり年齢的なものなのかもしれません。
眩しい光は もういい、ロウソクの光のような 一条の輝きでいい、そんなところなのでしょう。

ただ どうしても、あの 『可愛いイレーヌ』に 最後一度だけ、会っておきたい。
最後の別れを告げられたら、もう思い残すことなく、レンブラントの光に向かえる。
そんな、人に言うのも恥ずかしいような理由で、まあ こじつけ的な感も否めないのですが、本格的なルノワール展を観るのは これが最後と、出掛けた次第です。


『可愛いイレーヌ』は、正式には 『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像』といいます。
ユダヤ人の銀行家 ルイ・カーン・ダンヴェール伯爵の長女イレーヌ(1872~1963)の肖像画です。
製作年は、1880年となっています。
このとき、イレーヌは、8歳。

当時フランスは、普仏戦争に敗れ、ナポレオン3世の権威が完全に失われて第二帝政は終焉し、第三共和政下にありました。
言論・出版の自由が保障され、政権分離が進むなど、自由主義的諸改革が進展した時期です。
同時に、普仏戦争の敗北で傷つけられた国民感情を癒し 国威発揚につながる植民地拡大政策が採られて、西アフリカやインドシナに フランスの植民地化が進んだ時期でもあります。

国内経済の不振で 資金は有利な海外投資に向けられ、国民の零細な貯蓄は、ユダヤ系の金融資本によって 植民地への投資に引き入れられていきました。
1882年には金融恐慌が発生し、多くの投資銀行が破産に追いやられた結果、貯蓄をなくした人々は、金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせていきます。
同時に、普仏戦争後 フランスの外交的孤立化が進む一方、アルザス・ロレーヌ地方の移譲に根深い禍根を残し、多額の戦争賠償金に苦しめられた国民には、隣国ドイツへの恨みつらみが、フランス国民の共通する感情としてくすぶります。

こういう反ユダヤ的・対ドイツ的雰囲気のうちに 1894年に起こったのが、ユダヤ人のフランス陸軍参謀本部大尉であったアルフレッド・ドレフュスに対する冤罪事件、ドレフュス事件です。
ドレフュスが、ドイツのスパイの汚名を着せられたのです。
この事件で軍は弱体化が進み、フランスは不安定な第三共和政のまま、第一次世界大戦へと突き進んでいきます。


イレーヌにとって、ルノワールに肖像画を描いてもらっていたころが、もっとも幸せな時期だったのでしょう。
1891年 19歳になったイレーヌは、ユダヤ人銀行家カモンド伯爵と結婚し、息子ニッシムをもうけますが、12年後には離婚。
その後 再婚はするものの、第一次世界大戦に出征した息子のニッシムが戦死してしまいます。

混乱する19世紀末に青春を生き 戦争に明け暮れた20世紀前半に壮年期を生きたイレーヌは、裕福なユダヤ人家庭に育ち 幸せすぎた幼少期であったがゆえに余計、誰もが蒙らなければならない時代の残酷に、人一倍 心を痛めなければなりませんでした。

パリのモンソー公園近くに建つニッシム・ド・カモンド美術館は、前夫カモンド伯爵が 死後、息子ニッシムの名を冠して、収集した美術品とともにフランス国家に寄贈した、自邸の建物とのことです。


母親に叱られて 終始うつむきながら、館内を人波みに押されて歩む少女の、悲しい姿に気を取られて、展示された絵の前半は、鮮やかさだけが流れていました。
独立して掲げられている 『可愛いイレーヌ』の前に至って、やっと、ルノワールと対峙することができました。

切りそろえられた前髪。
肩を覆うようにゆったりと長く垂らした後ろ髪は、紺色のリボンで纏められています。
なんて上品な顔立ちなんだろう、目も鼻も口も、耳さえも・・・。
なんて愛らしい手なんだろう、短めの子供っぽい腕。
でも この少し縮れたような褐色の髪が、この絵に惹かれた いちばんの理由だったと、改めて納得しました。

誰かに似ている。
『可愛いイレーヌ』を前にして、初めて思い出しました。

幼稚園の学芸会で 助けを求めるような目で私を見ていた、あの女の子に、よく似ていたのです。