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ふたかみ山

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  当麻の里によせて (鳥越ゆり子)

    風が野づらに
    いろは文字を刻む
    タンポポの傘に変幻して
    あるいはセキレイの尾を振りながら
    銀ヤンマの翅を透きとおらせ
    アケビのつるや山藤の鞘となって
    白菜やキャベツをつづり
    黄金色の稲穂をゆする
    ここ 二上山麓
    当麻の里の
    棚田ひろがる
    ゆるやかな裾野に
    いのちはつづいている
    石斧や布目の瓦に
    湧きでる泉や
    草道にうずもれた石棺
    わたしはどこからきたのか
    今あることのまばゆい不思議
    泡立つコスモスの疑問の花びら
    百億光年銀河群の謎
    魂も燃えあがる 夕暮れ
    二上の山の乳房のくぼみに
    金の烏がゆったりと羽根をひろげて
    憩うとき
    サヌカイト琴 鳴れ
    ザクロ石 光れ
    わたしの胸の
    鼓動の故郷に



この夏のはじめ、奈良・五條市にある国宝・八角円堂を訪ねたのですが、その途中、二上山麓を通りました。
首記の詩は、そこで立ち寄った 「道の駅ふたかみパーク當麻」の食堂の壁に、描かれていたものです。

素朴な字体で、たぶん、どのような方か存じあげませんが、鳥越ゆり子さんの手になる壁文字でしょう。
近在の詩人だと推察しますが、この詩を読んだだけで、ひとめ お目にかかってみたくなります。

蛇足ですが、サヌカイトとは、金属器の伝来まで石器の材料として幅広く利用されていた火成岩の一種で、二上山の北に、国内最大級のサヌカイト採掘坑群の遺跡が見つかっています。
そして、このサヌカイトの薄板片で作った石琴は、えも言われぬ神秘な音を奏でます。


五條市の八角円堂見学の途中とはいえ、40年ぶりの二上山が懐かしく、當麻寺を散策したりして 午後遅くまで、この地で過ごしました。

當麻寺に魅せられて この地を初めて訪ねたのは、半世紀前になります。
當麻寺の東大門から見る二上山は、鳥越ゆり子さんが詩の中で詠んでられるように、母の乳房のごとく まことにやさしく、寺だけでなく この地が持つ原初的な雰囲気が気に入って、その後いく度となく この地を訪れました。
そして 尋ねるごとに、大津皇子(おおつのみこ)の悲劇に、引き寄せられていきました。

二上山は その名の如く、こんもりとした二つの峯の連なりです。
山の尾根は国境で、こちらが大和、向こうが河内です。
左が女獄でやや低く、戦時中、軍隊がこの頂に大砲を構えていたと聞きます。
右が男獄、その頂上に、大津皇子の 小さなお墓があります。


大津皇子は 天武天皇の第三皇子で、母は伯父にあたる天智天皇の娘である太田王女(おおたのひめみこ)でしたが、幼少のころ 母を亡くします。
天武天皇の死後、天武天皇の皇后であった叔母に当たる持統天皇に、謀反の疑いをかけられます。
そして、皇族同士の血みどろの争いの犠牲者となって果てるのです。

皇位継承は 皇子の年齢と母親の血すじが皇太子になる資格を決めますから、皇太子の候補者はおのずと絞られて、持統天皇の実子・草壁皇子(くさかべのみこ)と大津皇子が、有力候補でした。
草壁皇子は、大津皇子の1歳年上、それに母親が皇后であり、幼くして母を亡くした大津皇子より 外的条件は有利でした。
しかし、悲劇は得てしてそうなのですが、器量・才幹は大津皇子のほうが優れていたようです。

大津皇子の、英明な資質と堂々たる風貌、それに加えて、一般の人心を惹く人気をもっていたことが、かえって不幸のもとでした。
持統天皇は、自分の子・草壁皇子への執着から 大津皇子が疎ましくなり、ついに 「謀反を起こそうとしている」として 大津皇子を死に追いやってしまったのです。


と、まぁこれは、表面上の歴史であり、持統天皇ひとりを悪人に仕立てるのは、いつの世も 陰で暗躍する強欲者たちの常套手段ではあったことでしょう。
賢明な大津皇子は、そんな動きはちゃんと予想していたでしょうし、できれば天皇になって、良きまつりごとを行うことを望んでいたかも知れません。

長い歳月は、この大津皇子の悲劇すら、そんなことがあったのかと、忘れ去らせます。
先の戦争も そんなふうに語られるほど、平和が続くのであれば、どんなにしあわせなことでしょう。

二上山は、鳥越ゆり子さんの詩のように、かけがえのない故郷として、いつまでも仰ぎ見られるのが いちばんふさわしいと、行きすりの旅人ながら そう強く感じます。
二つの峯の、なだらかな稜線を追いながら・・・。