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1970年

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寺山修司作詞の 『時には母のない子のように』をカルメン・マキが歌ってヒットしたのは、70年安保闘争のさなか、1969年でした。
これ以上 不機嫌な歌い方はないくらい、暗い曲でした。
でも 時代は、カルメン・マキの歌を求めていたのです。
寺山修司、1935年生まれ。

その2年後、北山修作詞の 『戦争を知らない子供たち』が、大ヒットします。
北山修自身がのちに語っているように、この曲は、反戦歌というより、戦争を美化して語る世代への 反抗歌でした。
北山修、1946年生まれ。


朝日ジャーナル、平凡パンチ、そして少年マガジン。
1964年から70年の学生生活6年間で、日々の象徴は 「生真面目」から 「かっこつけ」を経て、徐々に 「しらけ」へ移っていきます。
現実を直視することから逃げるように、見せかけの幼稚化が進みました。

そして、当時最大の人気漫画、少年マガジン連載 『明日のジョー』の、最もかっこいい登場人物・力石徹の死、1970年3月をもって、ぼくの学生生活は終わりました。
卒業式もなく。

あとから知りましたが、力石徹の架空 “葬儀”で葬儀委員長を務めたのは、寺山修司でした。


これは ぼくだけの傾向なのかも知れませんが、戦中派でも戦後派でも、ましてや戦前派でもない 中途半端な世代の自分は、昭和10年前後生まれの人間のニヒルな強さに、憧れをもっていました。
そのかわりと言ってよいのか、自分より下の世代、ことに団塊の世代に対して、ちゃらちゃらしすぎというふうに、一種 偏見的に見下していたように思います。

ぼくの僻みな思いは、どっちもつかずの、よわよわしい世代。
その区切りをつけたのが、1970年でした。


1970年3月15日に始まった大阪万博は、その象徴でした。
学生から社会人へ。
そして大阪万博開催日は、結婚記念日ともなりました。

半世紀近く前の過去は、もう “歴史”の範疇に入ります。
10年や20年まえの出来事を 好き嫌い抜きで懐かしむことは、冷静さを欠きます。
でも、40年も経てば、個人の歴史としても かなり中立的な見方で、振り返ることができそうです。
そういう観点から見ても、1970年は、戦後日本のターニングポイントではなかったか。


作詞家・阿久悠は、彼の著書 『愛すべき名歌たち』の中で、1970年という年を、次のように語っています。

  …時代は貧しいのか豊かなのか、人々は自由なのか不自由なのか、未来は明るいのか暗いのか、
    立場立場の人の発言でどちらとも思える時代を、なかなか個人では確認できなくて大いに惑い、
    揺れた年である。
    お前さんは自由だよ、勝手だよ、気ままなんだよと言われることは、捨てられたと同じ気持ちになる
    ことがある。
    昭和45年という年は、日本人が、自由なのか捨てられたのか判断がつきかねる状態になった分岐点
    のような年で…

阿久悠は、この年の日本人を 「この分岐点の時代に迷子になりそうだった」と続けています。


万博に沸く1970年の日本列島を縦断した 貧しい家族の物語を、山田洋次監督は、映画 『家族』で描きました。
故郷、斜陽の炭鉱の島、長崎県西彼杵(そのぎ)郡伊王島を捨てて、北海道の中標津にある開拓村へ引っ越す一家5人。
途中で、一生の思い出にと立ち寄る、大阪万博。
ぼくは、この映画を、だいぶ後になって、レンタルビデオで観ました。
そして、恥ずかしく衝撃をうけました。
佐良直美が歌っていた 『世界は二人のために』のように、自分たちのことだけで有頂天になっていた昭和45年、こんなに切ない愛すべき貧しい家族が、必死で生きていたんだと。
山田洋次監督は、万博で沸きかえる日本列島を、冷静に見つめていたのです。


1970年、いったい日本人は、何から迷子になったのか。
映画 『家族』で描かれていた、あの家族から、貧しいけれど暖かくて安心な絆から、ひとりひとり、迷子になったのではないだろうか。

ぼくの、勝手な1970年への思いです。