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阿弥陀堂だより

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8年ほどまえ、『阿弥陀堂だより』という映画が上映されました。

東京で暮らす熟年の夫婦、孝夫(寺尾聡)と 美智子(樋口可南子)。
医師として大学病院で働いていた美智子は、ある時パニック障害という心の病にかかってしまいます。
東京での生活に疲れた二人が、孝夫の実家のある長野県に戻ってきたところから、映画は始まります。
二人は大自然の中で暮らし始め、様々な悩みを抱えた人々とのふれあいによって、徐々に自分自身を、そして生きる喜びを取り戻していく、というストーリーでした。

山里の阿弥陀堂を守る <おうめ婆さん>役の北村谷栄さんの、味のある演技が、いまでも鮮明に思い出せます。
ゆったり時間の流れる、いい映画でした。

この映画で、村の広報誌に 「阿弥陀堂だより」を伝えるのは、喋ることが出来ない難病を抱える少女・小百合役の 小西真奈美さんでした。
その小百合が、昔は著名な作家だった孝夫を相手に、阿弥陀堂の縁に腰かけながら語る 筆記の言葉が、深く印象に残っています。

「小説とは、阿弥陀様を、言葉で、作るようなものだと、思います。」


それでは、わたしが伝えたい 「阿弥陀堂だより」を、お便りします。

京都市の南東のはずれ、日野という土地に、法界寺というお寺があります。
このお寺の阿弥陀堂を、お伝えしたい。

今は、地下鉄東西線ができて、少しは便利になりました。
醍醐のひとつ向こう、石田駅で降りて、歩いて20分くらいのところです。
この地は、古くは貴族たちの遊猟地であったらしい。
『日本書記』に、天智天皇がこのあたりで猟を楽しんだ、と記されています。

この地の案内を、もう少し。

浄土真宗の開祖・親鸞は、藤原一族の日野家の出です。
親鸞は、この地で生まれたとされています。
日野家一門の菩提寺でもある 法界寺の阿弥陀様を拝む親鸞を、空想してしまいます。

法界寺から1キロほど東の山中に、方丈石が置いてあります。
鴨長明は、ここに庵をくみ、あの有名な 『方丈記』をつづったといいます。
当時の法界寺が、いかに人里離れたところにあった寺だということが、うかがわれます。

もともと この寺は、薬師堂をもうけることから はじまりました。
薬師堂じたい、創建当時(1051年)すでに建っていたらしい。
阿弥陀堂と薬師堂が、ここでは たがいにそっぽを向いたかっこうで、おかれています。
なんとかならないものか と、門外漢のわたしですら、訝しく案じる配置です。

薬師堂の格子には、おびただしい数のよだれかけ。
それもそのはず、この薬師堂は <乳薬師>として、古くより あまたの女性が、我が子への授乳のために 祈りを捧げてきたのです。


盆明けの、肌に刺さるような真夏の日差しが照りつける昼下がり、日野薬師こと法界寺を訪れました。
ふっと、阿弥陀堂の蔀戸越しに浮かぶ阿弥陀仏の姿を思い出して なにか どうしても、もう一度見届けなくっちゃあ、という気分で、出かけました。

境内に、人の気配はありません。
伽藍配置との位置関係が釈然としない境内池に、大きな白蓮が咲いていました。

その斜め向こうに、桧皮茸の阿弥陀堂が、くっきりと建っています。
7間正方、宝形(ほうぎょう)造りの裳階(もこし)付きで、二階建てのような一階建て。
中央階段をおおう裳階のところだけ、一段切り上がっていて、スリットの入ったスカートみたいです。
ぐるりと廻らされた広々とした縁が、おおらかで親しみある雰囲気を、醸し出しています。
実にいいお堂です。

わたしは、京都の有名なお寺には、どうも愛着が湧きません。
その訳が、自分でもはっきりしなかったのですが、法界寺の阿弥陀堂に接して、ようやく判りました。

訳、その一。
京都で観光にわく寺々は、たいてい庭園を売りにしている。
わたしは、庭園美というものが、どうも理解できない。

訳、その二。
京都の有名なお寺は、寺関係者のご努力もあって、経営的にうるおっている。
いきおい、地元から、浮いている。

わたしは、宗教者ではありませんが、宗教性を愛しています。
建物や仏像といった、ものとしての寺院が宗教性を秘めていることに、もちろん異論はありません。
しかし、わたしの愛する宗教性は、人間の行為にあります。
釘抜きさんの小さなお堂に向かって、一心に願い事をしているおばあさんの後ろ姿に、わたしは、深い宗教性を感じます。

つまり、土着民に愛されていない寺院に、宗教性を感じないのです。

法界寺の薬師堂は、重要文化財に指定されています。
その内陣を仕切る格子に、溢れんばかりのよだれかけが、掛っているのです。

法界寺の阿弥陀堂は、国宝に指定されています。
その広縁に、1月14日、裸おどりの男たちが裸足で上がって、ふんどし一丁でもみ合うのです。

きれいな庭を見にくる観光客が、支えているのではない。
授乳に良く効くと詣でる地元女人たちや、老いも若きも 両手を高く合掌して 「頂礼(ちょうらい)、頂礼」と叫び もみ合う男衆の、素朴だけれど真摯な信仰に、支えられてきた。

こんなお寺は、とても貴重です。
愛さずにはおれません。
もっともっと、大事にしなければ。

鮮やかであったろう彩色絵の ところどころ残る内陣に坐して、真正面のまろやかな阿弥陀如来を仰ぎみながら、わたしは、京都にこんな親しげな阿弥陀堂があったことを、心から感謝していました。