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水尾の里

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愛読しているブログに、「加藤わこ三度笠書簡」がある。
すらっと読めて 写真も楽しく、ほのぼのとした読後感を味わえる、すばらしいブログだ。

今年8月13日投稿の同ブログに、彼女のお兄さんが住んでられる三重県熊野市波田須町の 廃校となった 「波田須小学校」を、谷川俊太郎の詩に託して 紹介されていた。
廃校や廃坑に漂う空気から感じ取る 消え入りそうなさみしさは、加藤わこさんのおっしゃる通り、「正しい寂しさ」だと思う。
正しい人間の情感だと思う。


友人の木下哲夫氏に介添え(?)してもらいながら、水尾の里から愛宕山にのぼった。
この敢行は、脚が弱ってきたぼくにとって、彼がいなければ成し遂げられなかった快挙と、半分情けない気持ちで感謝している。

水尾の里は、穏やかだった。
清和天皇が この地を永久の棲みかに定められたお気持ちが、素直に納得できる。

木下氏の先導で、道に迷う心配はない。
小さく細長いグランドを横切る。
右手に 圓覚寺と揚げられた寺らしくない建物、左手は 学校みたいな建物。
「これは水尾小学校の分校跡や」との木下氏の案内で、あぁ、この細長いグランドは 校庭だったんやと合点する。

ちなみに 円覚寺とは、別名 「水尾山寺」と言う。
源氏の祖とあおがれる清和天皇は、9歳で天皇に即位され、27歳の若さで 皇子である9歳の陽成天皇に譲位された。
時の権力者であった藤原良房・基経父子を信任しつつも、彼らに心を許せなかったらしい。
幼少より体が弱く、多くの后妃・皇子女に恵まれながらも、生来の信仰心から29歳で出家される。

水尾を隠棲の地と定められて 新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸で病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御される。
粟田口の円覚寺はのちに焼失、再建されないまま 宝物などを水尾に移し、水尾山寺の名が消えて円覚寺だけが残ったという。
清和天皇を愛したこの村人たちの末裔の里人に、大切に護られている。


水尾小学校のホームページを開いてみた。
廃校になった小学校のホームページは、読む者に不思議な感覚を与える。
そこには、水尾小学校の生徒たちが いまでも生き生きと学校活動を続けているかのよう。

この山里に辿りつく道端にたくさん咲いていた芙蓉の花は、水尾小学校の生徒たちが 植えたものだ。
学校紹介で 岩田三枝子校長は、こう綴られている。


  ・・・地域の人々が水尾の自然を守り 大切にされている努力に学び、自然保護・環境保全に取り組む
  子供達の活動は、本校の教育目標 「豊かな人間性を持ち、主体的に学習・生活を創造する水尾の
  子どもの育成」を達成するために大事にして行きたい活動である。
  いろいろな体験を通して、自然に学び、地域を見つめ、地域に誇りを持つ子どもの育成は、本校の
  特色ある教育活動と考え取り組みに力を入れている。・・・


春には チューリップの花街道、夏には インパチェンスやサルビアの花街道、秋にはコスモス、冬には葉ぼたん、そして訪れた時期の みごとなフヨウ街道。
みんなみんな、水尾小学校の子どもたちの作品だ。

ぼくは、廃校となった水尾小学校の校舎やグランドを見て、加藤わこさんの言う 「正しい寂しさ」を、深く味わった。

校舎裏の民家の小さな畑跡に、紫色したかわいい花が 土を割って咲いていた。
木下氏が、帰ってから その花の名を調べ、教えてくれた。
その花の名は、「イヌサフラン」という。


水尾の里は、小学校は廃校になっても、生きとし生けるもの皆、静かに生き生きと息づいていた。