英語が話せるかも! |
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いまどき、エスペラント語を知る人は少ないと思います。
でも ぼくたちの学生時代、「これからの国際社会で活躍する若者は、エスペラント語を学ばにゃぁ」と 真剣に考えていた者が、かなりいました。
ぼくも、そのひとりでした。
そのきっかけは、高校の名物教師の授業にありました。
国語の先生でした。
「二葉亭四迷は、尾張藩士の親父さんから 口癖のように、『文学で飯が食えるか! お前のような
青臭い文学野郎は くたばってしまえ!』と言われ続けていた。そこで 『くたばってしまえ』をもじって、
二葉亭四迷というペンネームを思いついたんだ。」
こういう調子の授業でしたから、大学受験には役に立たなかったものの、この先生から教わった授業は、いまだに覚えています。
この先生が しょっちゅう、「これからの国際社会で活躍する若者は、エスペラント語を学ばにゃぁ」と言っていたのです。
ちなみに、エスペラント語を初めて日本で紹介したのは、二葉亭四迷でした。
エスペラント語は もともと、英語を国際共通語として当然視してしまう姿勢の対抗から 人工的に生み出された言語でしたから、その普及には無理がありました。
大学の教養部2年間で エスペラント語をあきらめ、やっぱり英語かぁ ということで、巷の英会話教室なるところへ 通うようになります。
鼻のツンと高い でも目は優しそうな、たぶんアメリカ人の 若い女性英会話教師に、顔と顔が引っ付かんばかりの距離から、<アン、ぶれ(Re)、ら(La)>、<アン、ぶれ(Re)、ら(La)>、<アン、ぶれ(Re)、ら(La)>…
もう、アンブレラで通じひんのかいなぁ、LでもRでも どっちでもええやん。
それでも 3か月分の前払い授業料がもったいないからと、でも 2か月足らずで やめてしまいました。
ここから、ぼくの不毛の英会話教材遍歴が始まります。
まず、NHKラジオ第二放送の 「松本亨の英語会話」。
田崎清忠の 「NHKテレビ英語会話初級」、國弘正雄の 「NHKテレビ英語会話中級」。
オーソン・ウェルズの 「English Adventure ― Drippy、“ The Chase ” 」。
東後勝明指導の 「NHK英語会話」カセット集、
小島義郎指導の 「NHK基礎英語」カセット集…
あぁ、不毛の英会話学習!
自分の努力が足りないくせに、教材のせいにしては 恥ずかしいです。
ぼくには、英会話の才能がなかったんや…
遠いむかしの 落伍者談です。
英会話など とうに諦めていたんですが、衝撃的な記事を 10月20日付けの朝日新聞に見つけました。
オピニオンインタビュー、立教大教授・鳥飼玖美子さんの 「これからの英語」という記事です。
溜飲が下がる内容なので、しつこいようですが、ちょっと長めに抜粋して引用します。
<グローバル化と言われる時代、我々が学ぶべき英語はどういうものでしょう。>
英語は もはや米英人などの母語話者だけの言葉ではありません。
彼らは4億人程度ですが、インドやシンガポールのように 英語が公用語の国の人たちと
英語を外国語として使う人たちを合せると 十億人。
みなさんが英語を外国語として使う相手は、後者の確率が はるかに高い。
英語は、米英人の基準に合せる必要はない時代に入りました。
< RとLの違いも たいした問題でなくなりますか? >
全く問題ないです。
様々な国の、英語が母国語でない いろいろな人に聞かせて、理解できるかどうか調べて
みると、RとLの違いなんて文脈でわかるんですよ。
< ここまでは英語だけれど、ここから先は英語じゃないという判断は、米英人がするのですか。 >
英語か英語でないかを 母国話者が選ぶなんて、そんな時代は過ぎました。
自分たちをスタンダードにしろなんて言ったら、それは少数派の身勝手です。
英語は、申し訳ないけれど 英米人たちの固有財産ではなくなったんです。
彼らにとっては、変な英語がまかり通って不快でしょう。
けれど、私たちだって苦労して勉強しているんです。
彼らも 歩み寄ってもらわなければ。
共通語なんですから。
< 国際共通語として英語は、英語から固有の文化を切り離して考える ということですか。
外国語を学ぶには、その言語が話されている国の文化を学ぶ必要があると言われて
いますが。>
英語には、米英の文化や生活、歴史が埋め込まれています。
これを全部切り離すことは、現実には無理です。
余力のある人、米英の文化や言語を専門にする人が 学べばいい。
少なくとも コミュニケーションのための英語というのなら、無自覚に米英の文化を
教えようとしないほうがいい。
これは、相当非難を浴びるでしょうね。
でも、これしか 『英語支配』を乗り越えるすべはありません。
国際共通語としての英語に、もう一つ重要な要素があります。
それは、自分らしさを出したり、自分の文化を引きずったりしてもいい、ということです。
『アメリカ人はそうは言わない』と言われたら、『アメリカでは言わないでしょうが、
日本では言うんですよ』。
それでいいんです。
お互いに英語が外国語で、下手な英語を話す者同士が 『本当はあなたの母国語で
話せたらいいんだけれど、ごめんなさいね』 『いやいや私こそ、日本語を話せないので
ごめんなさいね。しょうがないから 英語で話しましょう』というわけですから。
日本人は日本人らしい英語を話し、相手は 例えば中国人なら 中国人らしい英語を話し、
でも 基本は守っているから英語として通じる、コミュニケーションができる。
これが、あるべき国際共通語としての英語です。
鳥飼教授の言わんとされていることが、よーく理解できます。
思い出しました。
揚子江の奥に、特殊鋳鉄の提供者を探しに 中国を旅していたときのことです。
北京から同行してくれた年若い技術者と、揚子江を渡るフェリーの上で、お互いカタコトの英語で意思を疎通し合って、お互いの相手の言うことが ほぼ理解できて、うれしくて甲板の上で抱き合ったことがありました。
言葉が通じることが どんなにすばらしいことか、あのとき 心から感動したものです。
ネイティヴな英語が しゃべれなくて、いいんですね。
しゃべれないのが、あたりまえなんですね。
京都人が、生粋の江戸っ子のような東京弁をしゃべれないのと、同じなんですね。
アメリカ語も、国際共通語としての英語からみれば、ひとつの方言と考えればいいんですね。
なーんだ、そういうことだったんですか。
それなら 英語も、エスペラント語とおんなじ感覚で 学べばよかったんだ。
だったら、ぼくだって英語が話せたかも。
いや 今からだって、日本英語で話せるかも。
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