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息づかい

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50歳になろうとする平成7年の年明け早々、夜中に手足が痺れ出し 胸が大きくどきどき脈打って呼吸が早まり、血の気が地面に吸いとられるような錯覚に襲われた。体が言うことをきかない。
救急車で泉谷病院へ運ばれた。

当直の看護士さんが、自分の吐く炭酸ガスで治りますから安心してください と言って、鼻と口をすっぽりナイロン袋で覆ってくれた。
看護士さんの言う通り うそのように正常になり、あの恐ろしさはどうしたんだろうと 自分でも呆気にとられる思いであった。
その日の診断で 「過呼吸発作」 と呼ばれる、一過性のパニック障害とのことであった。

それからは いつどこで発作が起こるかとの恐怖心が先立って、外出が億劫になった。
外出時には つねにナイロン袋をカバンに入れていた。
社用で神戸へ向かう途中、満員の新快速電車の中で あの発作と同じような体調不良がおこり、用意していたナイロン袋も咄嗟の役には立たず、 新大阪駅の医務室で介抱を受けてからは しばらく外回りの仕事ができなかった。

これでは本当にダメになってしまう との縋るような思いから、30歳台後半にちょっとかじったことのある 太極拳の教室へ通うことにした。
それも 以前習っていた 「武術太極拳」 ではなく 「気功太極拳」 を選んだ。
この教室で、西村加代先生に巡り会え 呼吸という“ごく当たり前”の、しかし 生きる根幹の生理運動を 意識的に考える機会を与えていただくことになる。


過呼吸は 簡単に言えば、酸素の吸い過ぎである。血液中の炭酸ガスが不足して pH平衡度が崩れ、アルカリ血症を起こすのだ。
あの時期、あの発作に襲われたのは まさしくそのときの生活態度を示しており、仕事を取ってくることがなによりも優先した毎日で、なんでもかんでも吸収せねば、とりあえず自分のものにしておかなければ・・・と 焦った挙句の息づかいが、体も心も蝕んだ結果であった。
風邪と同じく 天の摂理が示した警告であった。
そのことを 西村先生のお陰で、このごろやっと判ってきた。

作家 五木寛之の言葉を借りれば、人間 生まれた最初にオギャーと息を吐、 死ぬとき息を引取って(吸った息を吐く力がなくなって)臨終するのである。
つまり、息は 吐くのが基本なのだ。

先生からお借りした 斎藤孝や 甲野善紀の書物から、腰や肚に重心を落とす身体感覚の重要性を認識し、また 太極拳のゆっくりした動作を通して、その実感を確かめることができつつある。
太極拳は 自分のためにやるのであって、人に見せるためにやるのではないとの 先生の基本姿勢が 私の性に合ったからだろう、いまだに続けられている。
たまに 能や歌舞伎、日本舞踊などの日本の伝統的な舞を観る機会があると、舞そのものの理解はほとんどないにもかかわらず、ついつい舞い手の足元に目がいくようになった。

パナホームのテレビコマーシャルで、松たか子が太極拳の 「左下勢独立(ヅォ シァ シ ドゥ リ)」の型を披露するワンシーンが流れると、さすが歌舞伎の世界で育っただけあって 腰の据わったいい姿をしている、などと真偽の定かでない批評をしたり・・・。

虚無僧尺八奏者の 中村明一が著した 「 『蜜息』で身体が変わる」(新潮選書) という書物を、最近読む機会を得た。
尺八に必要な 息継ぎのない長くて太い吐息に適した 『蜜息』 を探求して、呼吸の奥義を解き明かしている。

“ 呼吸は身体を鍛える手段ではなくて、自分の身体に即した 自然で健康的な呼吸を見出し、それが落ち着いてできる身体を作ることが目的なのです ” と著者が指摘するとおり、呼吸が主役でも目的でもない 身に合った呼吸で 安寧な生活を送りたい、そのための息づかいを身につけたい。
「 『蜜息』で身体が変わる」 は その糸口を示してくれる。


もう絶対に、過呼吸のような息づかいだけはしたくない。
正しい息づかいで ゆったりした生活を送りたい、そう 心から願っている。