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五百羅漢寺

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羅漢寺といえば、たいていの人は 大分県耶馬渓の羅漢寺を思い起こします。
でも 羅漢寺と名のつく寺は、全国あちこちにあります。
ただ 彦根にある羅漢寺(正式には天寧寺(てんねいじ))は、あまり知られていません。

会社の林君が 「彦根の五百羅漢さん、知ったはりますか」と、ぼくが寺巡りを楽しみにしているのを知っていて、そう問いかけてくれました。
彦根の営業先様から こんないいところがあるよ、と 教えてもらったのだそうです。
ラーメンのうまいところがあるよ と同じ感覚で、さっそく彦根へ出かけました。


彦根の五百羅漢寺、天寧寺は、城下町を一望できる丘の上にある、曹洞宗のお寺でした。
簡単に手に入る彦根のパンフレットには、案内がありません。
天寧寺は 井伊家ゆかりの檀家寺であり、たぶん 拝観料云々を問題としないからでしょう。

五百羅漢・天寧寺は、建てられてまだ200年も経たないお寺ですが、その建立発願の心に惹かれます。


幕末、彦根藩に、大椿事が起こりました。
男子禁制の槻御殿で、奥勤めの腰元・若竹が、お子を宿しているらしい という風評が広まります。
それが、藩主・井伊直中の耳にも届きます。
大奥の取締まりのためにも 若竹を詰問しますが、口を固く閉ざして 相手の名を明かしません。
ついには、不義はお家のご法度との理由で、若竹はお手打ちとなります。
後になって、若竹の相手が、藩主の長男・直清であることが あきらかになります。
藩主・直中公は、不知とはいえ、けなげな若竹と腹の子 すなわち初孫を 葬ったことになったのです。

直中公の心痛、計り知れません。
直中公は、若竹と初孫の菩提を弔うため、この天寧寺を建立します。
京都の大仏師・駒井朝運に命じて 五百羅漢を彫らせ、仏殿(羅漢堂)に安置しました。

ちなみに 直中公は、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の父です。
井伊直弼公も、この天寧寺をこよなく愛し、ここから見る彦根城下を いとおしんだと聞きます。


広いお堂三面に、びっしりと並ぶ羅漢さんたち。
そのお顔も 表情豊かでおもしろく、ぼくは時間の経つのを忘れて、ひとつひとつのお顔を辿っていました。

境内は きわめて静かで、丘を覆う木々は、はや紅葉の終わりを告げていました。
こういう情景に出くわすと、きまって思い出す句があります。
良寛さんの、辞世の句とも思える、つぎのような句です。


             うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ


彦根の五百羅漢寺での、秋を惜しむ 安寧なひとときでした。