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山田寺の仏頭

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阿修羅像に会いたくて 奈良・興福寺へ足しげく通ったのは、和辻哲郎の 『古寺巡礼』に魅せられた二十歳前でした。
その後も 幾度か興福寺を訪れましたが、阿修羅像に向かう自分が変わったのか あの狂おしいまでの阿修羅像への愛着は しだいに遠のいて、そのすぐ近くに安置されている 山田寺の仏頭の前に佇む時間のほうが 長くなっていました。

この仏頭は、もと奈良桜井にあった 山田寺の本尊の丈六の薬師如来像の頭部であるとされています。
丈六というものの 結跏趺坐の姿であったでしょうから、その座高は8尺くらいだったと思われます。
それでも2m半もある像のお顔を こんなに間じかに拝することはできなかったでしょう。

山田寺は今は存在しませんが、孝徳天皇の右大臣蘇我石川麻呂の発願の寺でした。
石川麻呂は 蘇我日向の讒奏によって 一門自決させられてしまいましたが、後にその潔白がわかり 天智天皇に惜しまれ 次の天武天皇の代になって追福のため この像を造顕したと伝えられています。
その薬師像を、治承4年(1180)平重衡の南都焼討ちで 壊滅的な焼亡に遭った興福寺の東金堂衆らが強奪して東金堂本尊としたのが、この仏頭の元のお姿だったのです。

その後 二回の落雷延焼に遭いながらも、この 「御首」 のみは残りました。数奇な運命の仏頭なのです。

このような難に堪えてこられたお顔は、頭頂部の大半が失われ 耳を含む左後頭部が痛ましく くぼんでいます。
にもかかわらず、なんと端正で麗しいお顔でしょうか。
「ゆったりと弧を描いた眉の陰翳、実に単純だが深いやさしさを込めた眼、それと鼻から口元にかけての調和は無類で 素素として麗しいとでも名付けられるべき、無比の仏顔である。」 と、亀井勝一郎は讃えています。

このお顔に対して どのような言葉も 私には無力のような気がしますが、書道家・相田みつをが その著書 「にんげんだもの」の中で “山田寺の仏頭によせて” と題して語っている一文は、私のこの仏頭に寄せる思いを 見事に代弁してくれています。


宮沢賢治の詩にある 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」 というのは こんな顔の人をいうのであろうか・・・
この顔は かなしみに堪えた顔である
くるしみに堪えた顔である
人の世の様々な批判にじっと堪えた顔である
そして ひとことも弁解をしない顔である
なんにも言いわけをしない顔である
そしてまた どんなにくるしくても どんなにつらくても 決して弱音を吐かない顔である
絶対にぐちを言わない顔である
そのかわり やらねばならぬことは ただ黙ってやってゆく、という 固い意志の顔である
一番大事なものに 一番大事ないのちをかけてゆく・・・そういうキゼンとした顔である
この眼の深さを見るがいい
深い眼(まなこ)の底にある さらに深い憂いを見るがいい
弁解や言いわけばかりしている人間には この深い憂いはできない
息子よ
こんな顔で生きて欲しい
娘よ
こんな顔の若者とめぐり逢ってほしい



再来週の週末、この仏頭に 久しぶりに会いに行こうと思っています。